佐野元春こそロック
サエキけんぞう

 例えば、みんなボブ・ディランが好きという。ディランの歌がロックだという。

 でもディランがどうロックかと、説明できるのだろうか?試験じゃないから、別にいい点とってくれ、というんじゃない。ディランがどうロックなのか、一緒に話をしてくれるのだろうか、語り明かしにつきあってくれるだろうか?
 
 「面倒くさい、だってただの歌じゃん」
 
 そういう声が聞こえてきそうだ。でも、佐野元春となら、一晩中そんな話ができそうだ。
 
 実際、ディランをディランたらしめているのは、単なる歌心などではない。ロック化してディランが本格ブレイクするきっかけとなった「サブタレニアン・ホームシック・ブルース」の歌詞を見てみればいい。麻薬中毒患者や、徴兵や、ヤバい言葉があふれるように出てくる。(翻訳詩が不完全なので、できれば自分で訳してください)
 
 単にディランは、状況を面白がって書いてるんじゃない。ベトナム戦争の泥沼のはじまり、そして巷にあふれ出したジャンキー、そんな状況のヤバい空気を、伝えざるを得なかったのだ。アウトプットせずにはおれなかったのだ。それを現在のラップと同じスピード感で、内容は100倍のヤバさで伝えたからディランはブレイクしたのだ。
 
 日本人はそんな状況、内容など正確には知ろうともせずに気分で消費し、現在に至る。 ロックンロールはポリティカルな物?それはどっかの政党に属しているとかじゃ、断じてない。世界を、状況を映し出しているかどうか。知覚的かどうか。それが、ポリティカルなのだ。ロックなのだ。
 
 ビートルズは最初っからポリティカルだった。デビュー当時から、マスコミに対する気配、態度そのものが知覚的だったのだ。
 
 佐野元春はといえば、僕は最初、スウィートでラブリーなポップ・シンガー・ソング・ライターだと思っていた。
 
 確かにそういう面もあるだろう。しかし彼は同時に、「ユージュアル」=普通に、ロック好きな青年であったのだ。
 
 その「ユージュアル」が問題だった。
 
 そのユージュアルとは日本の基準ではなく「ワールド・スタンダードの普通」だったのだ。「本物のロックが好きなら、ロックを歌おうと思うなら、これくらいの状況認識やアティテュードは普通に必要なはず」彼は、国際感覚で、常にそう考え続けているに違いない。実際、国際的には、佐野元春くらいのポリティカル度はロックの常識だ。彼は特に過激なわけじゃない。国際基準からすれば。
 
 しかし、何千ものロックバンドのブームに隠れて、ロック性を育てていた彼は、いつの間にか、日本で一番ロックンロールな人間となっていた。
 
 彼は、過激なものの言い方で人気を稼いだり、人や状況をパンク的に茶化したり非難したりすることがない、温厚なアーティストである。ロック的とは、そういう作法を指すと思っている人もいまだ多い。
 
 僕は彼が甘い歌を歌おうが、バラードを歌おうが、ロック的、ポリティカルな人間なのだと、ほどなく気づいた。その予感が最初に実体を伴ったのは「ヴィジターズ」であった。「コンプリケーション・ブレイクダウン」。彼がコミットしようとしなかった「パンク」のような単なる悪態ではない、非常に知的なロックンロール精神がそこにはあった。
 
 そして時間がたち、彼はレーベルを持った。状況がヘンなら、自分で状況を作るという気概、行動力。基準は会社や金じゃなく、ファンだ、というその姿勢、それそのものがロックだ。
 
 誤解しないでほしいのは、メジャーがロックじゃない、といっているのではない。状況しだいでは、あらゆる行動の可能性をとれるのがロックだといってるのだ。(EMIを追い出されたセックス・ピストルズはロックだったが、金のためだけのピストルズ再結成は、ロックっぽくないとか、そういうこと)
 
 今、佐野元春が照準を合わせている音楽はかつてなくロック的だ。あらゆる意味で。
 
 今回のアルバムで感動的なのは、M4「希望」M5「地図のない旅」M7「恋しいわが家」M13「国のための準備」などと、ロックンロールの音楽的ルーツ、アメリカン・ブルースやフォークの魂に触れるような曲、サウンドが散見されること。彼の長い音楽遍歴の果てに、ついに等身大で抱えることになったロック音楽のルーツ。Jポップの狭い枠ではなく、アメリカの大地と同じ養分を吸ったインターナショナルな音楽が、新しいメッセージを伴って生まれたのだ。
 
 「この命を 支えるだけの愛を」
 「まちがいだらけの地図を閉じて」
 「失くしたものなら 数え切れない ムダに気がついている」
  
 今、声を大にして、いいたい。
 モトのための準備はもうできてるかい!