「ロックンロールと佐野元春」に求めていること
dharmash

現代の再生神話としての「太陽」について語るとき、人は透徹した眼差しで自身の心を、ヌミノースな領域にまで深く沈潜していかねばなるまい。さもなければ、クレイジーな浮世人として現代社会の闇の彼方へ葬り去られるのがオチだろう。「錆びてる心に火をつける」とは、一体如何なる現象を表した詩句なのだろう。このフレーズは別な角度から捉えるならば、現代社会に生きる我々への警句(アフォリズム)としても響いてくる。

アルバム『THE SUN』を「佐野元春の新しい夜明け」として捉えるならば、私にとっては、14篇のストーリーのなかで凡そ13篇までが、すべてラストの「太陽」に向けた序章にすぎない。本作に「太陽」が収められることがなければ、『THE SUN』は優しい光に溢れた珠玉のポップソングの集大成となり、聴く者はその居心地のよい夢と愛の調べに包まれながら、日常を投影させた醒めることのない物語に誘われたに違いない。

そして、私は少し離れた客席から少しおさまりの悪さを抱きつつ、懐疑的なアティテュードでその現象を眺めることになったのかも知れない。眩い光の対極に位置するであろう、漆黒の闇を一身に背負った表現者としての佐野元春を、不満と不安を抱きつつ見守ることでしか、芸術作品としての『THE SUN』を鑑賞する術は見出せなかったことであろう。

しかし、自身がフェアなミュージシャンに対峙するフェアなリスナーであるのならば、そこでオーディエンスは気付かされることだろう。「ロックンロールと佐野元春に一体何を求めるのか」という命題が同時に提示されているという、この状況について。我々リスナーが全人的なスタンスで、その命題に取り組まぬ限り、いつまでもアルバム『THE SUN』は平面的で無機質な輝きの中でくすぶり続けるに違いない。

これまで佐野元春は、自身の作品について積極的に語ることを潔しとはしなかった。それは或る意味、謙虚で真摯なミュージシャンの態度であったといえる。しかし、それがまた同時に、自ら課した芸術家としての限界でもあったのだ、といえよう。彼が今後もフェアなアーティストとして創作活動を続けてゆくためには、自ら課したその限界を、ロックンロールの渦の中に放り込んでしまうことが必要だったのではなかろうか。

「THE LIGHT−光」では、その自ら課していたであろう境界線がぼけている。なぜならば、そこでは良し悪しにかかわらず、作り手のプライベートと受け手のプライベートが社会現象という第三者を通じて合致しているからだ。つまり、時事的な曲を書くときには注意深くなるという佐野元春にとって、稀有な作品ともいえる「THE LIGHT−光」の背景にあるものは、表現者としての内的世界(=詩的世界)と外的世界(=社会現象)とが、かなりの部分でオーバーラップしてきた、という世界観に相違ない。

その現象を、ロックンローラーらしく更にアグレッシブな方向で展開させた作品が、現代の再生神話としての「太陽」であろう。地上(ここ)では、樹木が空高くそびえるためには、地中深くまでその根を張り巡らさねばならない。延命菊としてのデイジーには、そのしたたかさが備わっている。「太陽」でニュートラルな神性概念を提示して、我々リスナーと共に空高く風に舞い上がるために、佐野元春は4年という歳月を費やし、地中深くに潜伏することが不可欠であったことはいうまでもない。

ここまで際限もなく『THE SUN』に対する想いを綴ってきて、気付かされることがある。それは、「THE SUN−太陽」以降、日本の
ポップソングがこれまでとまったく異なる次元で、我々の元に届けられる時代が始まった、という事実である。それは将来、20年という歳月を費やして社会現象として定着した『VISITORS』を凌ぐ、エポックメイキングな作品としてクリティサイズされることであろう。

リスナーは、その新時代の幕開きに立ち会っているという臨場感を見逃してはならない。なぜならそれこそ我々が、「ロックンロールと佐野元春」に求めていることであるからだ。