ハートランドからの手紙#167
「All access free - 友人 岩岡吾郎氏に捧げて」


生きていれば何度かつらい別れに会うことになる。
岩岡吾郎。フォトグラファー。僕をデビューの頃から撮り続けてくれた人。舞台を、楽屋を、私生活を。岩岡吾郎だけは僕のどの領域にも入り込むことのできたたったひとりの友人だった。

はじまりは新宿ルイードだった。岩岡吾郎はステージに立つ若く無名の痩せた歌手の将来を買って無償のファインダーを切ってくれた。後にその写真を見て気に入った僕はその日から彼にオフィシャルフォトグラファーととしての仕事を頼んだ。

岩岡吾郎の写真の中で僕が好きな写真はデビューまもない頃の新宿ルイードでのフォトだ。煙でくすんだ店内。狭い壁一面の落書き。裏の厨房からうまそうな食事の匂いがこぼれちる。リハーサルを終え、楽屋で出番を待つバンド。鏡に向かい、雑誌のページを繰り、ただぼおっとタバコの煙をくゆらせて、バンドメンバーはみんな思い思いの恰好で出番を待っている。

その日は特別なライブになるはずだった。街はクリスマスイヴ。僕らはクリスマス向けの曲も用意して、その夜の観客に楽しんでもらう準備をした。衣装は、がらにもなくタキシードだ。僕もバンドメンバーも、大人というにはまだ若い20代前半の頃。肩幅は狭く、タキシードが似合っている者はひとりもいなかった。

そろそろ客が集まってきた。楽屋と客席を隔てているのはたった1枚の薄い壁だ。客のわいわいがやがやが僕の耳にも届いてくる。今夜はいっぱい集まってきてくれているだろうか。気になって仕方ない僕は気持ちを抑えきれず、楽屋の出入り口の扉をそっと開けて客席を覗いてみる。

扉を開けたことでふいに楽屋にさしこむ客席からの光。客のガヤ。バンドメンバーも振り向いて様子を窺う。その夜の客がいいムードにいることを確認した僕は、冷静を繕ってそっと扉を閉じた。もうあと30分もすれば彼らは僕らの音の渦に飲み込まれてしまうのだ。

そんな僕の様子を別の場所から見ていた男がいた。岩岡吾郎のカメラのファインダーに捉えられていたのはその夜の主役。デビューまもなく、たよりなく、その日暮らしの、気持ちだけが先にいった23才。楽屋にさしこむ光を受けて客席側を覗く横顔。彼はすばやくシャッターを切ることでその一瞬を永遠に変えた。僕と僕を取り巻く世界は瞬時に、岩岡吾郎の目と指によって完全にフリーズドライされた。

ここにその写真がにある。この写真は後にどこかで公開されたと思う。どこで公開されたかはどうでもいいこととして、僕の悲しみは、もう彼のようなフォトグラファーはいないということだ。彼は僕の始まりを知りながら、彼は僕の終わりにはいない。そこには、スタートからともに歩みながら順に打ち据えてきた道標が、ふっと振りかえったとき、途中でぷっつりと途絶えてしまっているような、そんな哀しみがある。

1984年。僕はニューヨークにいた。ある日彼から連絡があって写真を撮りたいという。それからまもなく彼は僕のアパートメントにやってきた。街はクリスマスの時期だった。彼は何日間かかけてニューヨークの街並みと僕の写真を撮った。僕らはアップタウンからダウンタウンまでよく歩き、途中小雪に降られながらも、撮影を続けた。彼に写真をとってもらうのは愉快だった。よく笑い、よく気取った。撮影が終わり最後に、セルタイマーを使って僕らは記念写真をとった。彼には僕の帽子をかぶってもらい、僕はマヌケな顔をした。

岩岡吾郎と行なったニューヨークでのフォトセッションの模様は後に「エレクトリックガーデン(小学館 1986年刊行)」に収められた。プライベートを人に見られるのはあまりいい気はしないが、この一連の写真はプライベートフォトであるにもかかわらず、いやな気がしなかった。彼のカメラの前に率直に心を開いている自分がそこにいることに気づく。ここに収められた写真は、僕のニューヨーク生活を捉えたものとして広くファンにも知られている。しかしひとりよがりな個人的な見方によれば、この一連の写真は僕のニューヨークでの私生活を追ったものというより、撮影者である岩岡吾郎自身の心のドキュメントであった気がしてならない。

岩岡吾郎はよく僕らのツアーに同行して、舞台やリハーサル、楽屋での様子、オーディエンス、オフの時間を過ごすバンドメンバー達を撮った。空港で、移動のバスの中で、列車の中で、彼はいつも僕らと行動を共にした。ライブが終われば、バンドやツアー・クルーの仲間達と一緒に飲んで騒いだりもした。岩岡吾郎はもうひとりのバンドメンバーだった。デビューからあっという間だった80、90年代。そのときどきの熱狂と奇跡を、彼は記録してくれた。

「Then」という写真集がある。およそ10年間にわたるツアー記録からの抜粋で、写真のセレクションは彼自身が行った。'All access free - どのエリアも出入自由' 。ライブやイベントの現場で、特別の許可された者だけに与えられるいわゆるフリーパス通行証だ。大きなライブには何人ものプレスカメラマンが入るが、岩岡吾郎だけはこの 'All access free' パスを持った唯一のカメラマンだった。その利を生かし、彼は縦横無尽にライブ会場内を歩き回り、息を飲むようなアングルで舞台を撮った。写真集「Then」には、そんなライブ・フォトが多数収められている。

1996年、夏の終わり。その夜はじゃっかん雨模様だった。何度目かの横浜スタジアムは特別な夜だった。「ランド・ホー」と呼ばれたそのライブは、僕の初期のバンド「ザ・ハートランド」の最後の舞台だった。16年。バンド・メンバーも僕もそれまでの年月を誇りに思い、できることをすべてやった。そしてそこにはもう一人、同じ歳月を共にした友人がいた。いつもどおり肩から数台のカメラをぶら下げ、いつもと変わらぬ笑顔、いつもと変わらぬバイタリティーで、僕やバンドメンバーや観客を撮って回ったフォトグラファー、岩岡吾郎だ。

「REMEMBER」という写真集がある。黒いハードカバーで装丁がクールだ。その記録を写真集として僕が受け取ったのは翌年、僕の誕生日だった。彼はこの写真集の出版をわざわざ僕の誕生日に合わせてプレゼントしてくれたのだ。なんという感激。スタンド席には声援を送ってくれる数万人のファン、16年間の長い旅の先に行き着いたバンドメンバーの晴れやかな笑顔。たった一夜のメモリアルなワンナイトスタンド。貴重な瞬間がここに記録された。

僕は南米の音楽を詳しく知らないが、彼は常々アルゼンチン・タンゴの魅力を僕に語ってくれた。彼がコンピレーションしてくれたテープを今でも持っている。後年彼はタンゴ音楽の愛好家が集まる店を開店した。その店に行けなかったことが今思えば残念だ。

時は経て多くの思い出が残った。過去のどの写真を見ても彼を思いだす。互いにプライベートな話は何となく控えていた。彼は舞台を、楽屋を、私生活を、僕のどの領域にも入り込むことのできたたったひとりのフォトグラファーではあったが、決して僕の本当にプライベートな領域にまで踏み込んでこようはしなかった。そのようなときには必ず扉をノックしてくれた。誰にでも、誰にも触れては欲しくない領域というものがある。創作者としての孤独、聴衆の前に立つ者としての孤独。岩岡吾郎は僕の性格を誰よりもよく知っていて、僕の子供じみたナイーブさを優しく許容してくれた。だから僕は岩岡吾郎のカメラの前に心を許すことができたのだ。

岩岡吾郎が残してくれた写真のおかげで、古くからのファンも若いファンも、どの時代のどのシーンにも、当時の空気感にリアリティをもって接することができる。だから「ありがとう」と言いたい。僕のファンもそう思っているに違いない。僕のファンならきっと、僕のライブ写真の片隅に彼の名がクレジットされているのを見たことがあるだろうし、僕のファンならきっと、彼の名を知らない者はいないだろうから。

あまりにそっけない謝辞にがっかりしないでほしい。
今の僕にはこの言葉しか言えない。
ありがとう。

All access free.
さようなら、僕の友達。

2004年3月
佐野元春

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