特集 = VISITORS再訪

「これは君のことを言ってるんだ」 -『ヴィジターズ』三十年目の再訪に寄せて

原田高裕

やがて闇と光とがひとつに結ばれるまで
クロスワードパズル解きながら
今夜もストレンジャー
これは君のことを言ってるんだ
(佐野元春「訪問者たち」)

The children asked him if to kill was not a sin
"But when he looked so fierce,” his mother butted in
If looks could kill it would have been us instead of him
All the children sing

Hey, Bungalow Bill
What did you kill, Bungalow Bill
(J.Lennon / P. McCartney「Continuing Story Of Bungalow Bill」)

 この度、『ヴィジターズ』の三十周年記念盤が発売になった。十年前には資料的要素として質及び量ともに充実した二十周年記念盤が発売され、今回の三十周年記念盤はオリジナルのマルチテープからマスタリングされた音源と、盟友である故岩岡吾郎氏による写真集がパッケージされた完全版となっている。おそらく、これが完結版になることだろう。ここまでくると、あらかた『ヴィジターズ』の「読み(聴き)解き」は十二分に行われ、定説もしっかりと成りつつあるようだ。付け加えることも、そう多くはないのかもしれない。よって、以下では、私の個人的な『ヴィジターズ』の読み(聴き)解きを、多少ながら述べてみることにする。

『ヴィジターズ』が発売されたのは1984年。その当時においての佐野元春の見え方としては、「日本で人気を極めつつあるのに、その燦めく地位を捨て、人種の坩堝であるNYCに飛び込んでいった、何を考えているのかよくわからないポップスター」「音楽的成熟を求め、海外に武者修行に出た日本人」といったものだっただろう。2014年の今においても、そのような捉え方が大方を占めているかもしれない。私はこのアルバムにおける佐野元春を、ニューヨークという旅行先を訪ねた「訪問者=ヴィジター」として捉えることは無い。訪問者というよりは、少々エグい表現ではあるが、「異人=ストレンジャー」として捉えた方が、実は『ヴィジターズ』の読み(聴き)解きに適しているのではないかと考えている。

 アルバム発表の一年後、とある著作が上梓された。小松和彦氏の『異人論』だ。日本民俗学における優れた論文集として、今でも評価の高い本である。この中で「異人」は、だいたい以下のような定義がなされている。

 異人とは、社会の外部に住み、さまざまな機会を通じて定住民と接触する人びとである 畏れ敬う気持ちの方が強い社会では、異人は人々に歓待される 忌み嫌う気持ちの方が強い社会では、逆に異人は排除される 同じ社会にあっても、時と場合に応じて、異人は歓待されたり排除されたりする 社会は異人に対して門戸を閉ざし交通を拒絶しているのではなく、社会の生命を維持するために異人をいったん吸収した後、社会の外に吐き出す。

 異人とは、こちら側(=定住民)の側とあちら側(=外部、異類の側)とのマージナルな(=どっちつかずな)境界に闖入し、こちら側の人々を揺さぶる存在であり、且つその時々で歓待されたり排除されたりする両義的な宿命を帯びた存在でもある、ということだ。

 私の『ヴィジターズ』の読み解きは、端的にいうとこうなる。『ヴィジターズ』を聴くということは、街の男女を観察し描出していた眩く燦めくロックスターが、境界に飛び込みスティグマを賦与される異人へと変貌を遂げていく「転換の過程」を追体験する行為である、と。場としてのニューヨークも、人種の坩堝というより、様々な国の異人どもが屯し蝟集していた「闇と光とが混在する異界」であったに違いない(ちなみに、最近の分子生物学によると、我々が普段何のギモンもなく使っている「人種」というものは、そもそも存在しない*)。そういった異界で、佐野元春は闇と光とを一つに結ぶ行為に、悪戦苦闘というよりは、自ら進んで没入していった。「調子っぱずれはやめてくれ」と、周りからケチをつけられながらも。その痕跡はスポークンワーズ「N.Y.C. 1983〜1984」に顕わであるし、当の佐野自身が当時の様子をインタビューで支離滅裂気味に語っている。(『新譜ジャーナル』1984年7月号。二十周年記念盤ブックレットに掲載)。

**

 では、異人という存在は、日本におけるフォークロア(民間伝承)では、どのような扱われ方をしてきたのだろうか。前述『異人論』の第一章のタイトルはこうなっている。「異人殺しのフォークロア」と。端的にいうと、日本社会における民間伝承において、異人は殺されてしまう役割を負っているのだ。伝承の物語内では直接的に命を殺められる言説で現れることが多いが、それは社会的な存在を抹殺されることでもある。

 ビートルズというかジョン・レノンがつくった歌に「Continuing Story Of Bungalow Bill」という風変わりなものがある。歌の中で、子供達はバンガロー・ビルに無邪気に尋ねる。「虎は殺しちゃいけないんじゃないの?」と。そこに、バンガロー・ビルの母親がすかさず割り込み、子供達に当然のようにこう諭す。「獰猛に見えたらしょうがないのよ」と。「恐い“外見”で人を殺められるならば、こっちがやられていたわ」。ここで象徴的に語られていることは、虎と人間の置かれている立場は、時と場合によっていつでも転換可能である、ということだ。注意深いリスナーであればご存じだろう、「ニュー・エイジ」の最後のコーラスでこの歌の一節が歌われていることを。

 ここまでの話を、XとYのベン図で簡略化すると、このような感じになる。

X ―― ∩(交わり・積)―― Y
闇 ―― 異人 ―― 光
定住民の側 ―― 異人 ―― 外部
祖国 ―― 訪問者 ―― 異国
バンガロー・ビル(+母親) ―― 虎 ―― 子供達
日本 ―― Moto ‘Lion’ Sano ―― ニューヨーク

 日本だけでなく、古今東西を問わず、「X∩Y=どっちつかずな場」にいる者 ――異人も訪問者も虎もライオンも――は、いったん定住民側の社会に受け入れられるが、生命維持装置の役割を終えた後、社会的に葬り去られる運命を、人間社会自らが授けている。

 しかし、ここで注意してほしい。三十年前、クロスワードパズルを解きながら異界を跋渉するストレンジャーと化した佐野元春は、私たちにこう語りかけていたのだ。「これは、すべての現在に関わりある人々についてのストーリーなんだ」と。「オレハ ホウムリサラレルウンメイニアルガ オマエガモシ’異人’トシテノイキカタヲエラブノナラバ イツカハ’虎’ノヨウニ’唾棄’サレルサダメニアル コノセカイガ コレカラモイキナガラエテイクタメニ」と。

**

 『ヴィジターズ』を聴いて佐野元春を知った若い世代の人たち、または、『ヴィジターズ』の交錯した世界にもっと突っ込んで分け入りたいリスナーには、是非とも『Coyote』(2007年) を併せて聴いてみることを奨めたい。この二つのアルバムは、音叉の共鳴のように共振しているからだ。2 in 1パッケージでもいいんじゃないかと個人的には思っているくらい、この二作品は「地続き」にある。くどいかもしれないが、

死 ―― トリックスター ―― 生
荒地―― コヨーテ ―― 海

 といった関係性を頭に思い描きながら、『Coyote』と『ヴィジターズ』を聴き比べてみるのも一興かと思う。死と生の調和のために孤軍奮闘し、海へと向かうコヨーテ。その後ろで響き渡る銃声――。果たして、あの残響は何を意味しているのだろうか。

 闇や荒地を這い回ってみなければ、光や天使の意味はわかるまい。そのために、この世にはストレンジャーやコヨーテが、今ここに、確かにいるのだから。

* ベルトラン・ジョルダン氏によるサイエンスエッセー『人種は存在しない』から。氏曰く、「我々の各細胞核の中にはDNAがあり、そこには30億個の塩基配列がある。…地球で暮らす70億人の人々の中から、無作為に選んだ二人のDNAは、99.9%が同じである。つまり、平均して千個の塩基のうち一個しか違わない。この均質性は注目に値する」し、スニップス(遺伝的多型性)観察により、集団内の多様性は集団間の多様性よりも大きいことが検証されたという。「敵意と脅威に満ちた世界に直面する際、見知らぬ者にはレッテルを貼ることによって彼らを区分しようとする。要するに、『われわれ』と『よそ者』という、はっきりとした境界線を設けることによって安心感を得たいという心理が働くのだ。だが、それこそが人種差別なのだ」。0.1%の違い(300万個の塩基配列の違い)やメラニン色素などによる容姿=“外見”の差異は、個人を捉えようとする時に本質的な意味は持たない。

(了)

[Back to Contents]