「歌」は、いつかどこかで誰かに届く
渡辺 亨

 「歌」は、いつかどこかで誰かに届く。時間や場所を越え、性別や世代を超え、誰かに届く。いま、この地球のどこかで生きている人ばかりか、ときには時空を超えて、誰かに届く。でなければ、祈りの集い時、人は「歌」など歌ったりしない。

 ある特定の「時代」や「事象」のことを歌っている「歌」は、たくさんある。ある特定の人のことを歌っている「歌」もあるし、ある特定の人のために歌っている「歌」というのも、あるだろう。もちろん、こうした「歌」の中にも、素晴らしいものはある。けれども、『Zooey』の中の「歌」は、すべて「いつか」「どこか」「誰か」の歌であるように思う。

 たとえば、「誰もが誰かにただ愛されたいだけ」(「Zooey」)と佐野元春は歌っている。恋人、家族、友人、仲間……それぞれの聴き手にとってとても大切な「誰か」。自分と同じように市井の人として、人生の営みをなんとか繰り返し続けている「誰か」。いくら会いたくても、どんな手段を尽くしても、もう二度と会うことのできない「誰か」。たとえ1年後、5年後、10年後に聴いたとしても、さまざまな「誰か」のことを想わずにはいられない。『Zooey』に収められているのは、こんな「歌」ばかりだ。また、「君が愛しい」(『La vita è bella』)、「君と一緒でなけりゃ」(『君と一緒でなけりゃ』)、「私たちはずっと共にいる」(『詩人の恋』)と佐野元春は歌っている。これらのシンプルでダイレクトなフレーズが、静かに深く心に染みる。こんな平易な言葉で綴られた、「性別」や「世代」を超えて「誰か」に届く歌。そんな普遍的な「歌」ばかりである。

 「世界は慈悲を待っている」の歌詞の中に「grace」という言葉が出てくる。「grace」は、「尊さ」のことだ。尊さがないものに「美」が宿ることはないし、尊い意志がなけれなば、美しいものは生み出せない。けれど、悲しいことに、世の中から「grace」が失われつつある。たとえば、インターネットの言論空間に「grace」はあるだろうか?たとえ意見が異なっていても、たとえ見知らぬ誰かであっても、人格や意志を尊ぶ。それが「grace」だ。佐野元春は、常に「grace」を持ち続けてきた。自分を育んできたロックンロールや街角の詩人たちの声を世代を超えて共有していきたい。あるいは、自分自身を「変容」し続けたい。こうしたことも含めた「尊い意志=grace」を。もちろん、「grace」は、『Zooey』の端々から感じられる。だからこそ『Zooey』は美しい。

 先に書いたことと矛盾するようだが、『Zooey』は、「今の時代」と強く結び付いているアルバムだ。『Coyote』から約6年ぶり。この間に起こったさまざまな出来事が何らかの形で反映されていることは間違いないし、佐野元春個人のストーリーが秘められているような気もする。そして、2011年のあの災害で天国に召された数多くの「誰か」への鎮魂も。あの日のことを思い出すと、誰だってやりきれない気持ちになる。佐野元春のヴォーカルは、そうした気持ちをなだめるかのようにしなやかで優しい。と同時に力強い。残された者にはやるべきこと、やれることがある。それは、いつまでも覚え続け、記憶を残すこと。そうすれば、「誰か」にとって大切だった「誰か」を生かし続けることができる。その永遠の思いこそが「grace」 である、と。僕は、このようなメッセージを聴き取った。