たしかな君、未経験な君に向けた『Zooey』のための長口上
原田高裕

 「慈悲なんて、よくわからないよ」と君は言うかもしれない。実のところ、オレもよくわかってはいない。無信仰の者が分際をわきまえず、おいそれと物知り顔で立ち入ったなら、痛い目に遭いそうだ。でも、そんなオレでもたまには誰かを想って、心を澄まし、祈ることがある。誰にでもあるだろう、「あの人が、うまくいきますように」と祈ることは。世界が待っている慈悲とは、たぶんそういうことだろう。

 信頼するたしかな君よ、無邪気で未経験な君よ、祈る人の邪魔はしてはいけない。祈る人の気持ちを蔑ろにしてはいけない。

 『Zooey』の物語や詞は、とても簡潔で素直だ。肩すかしを食らったようなわかりやすさがある。言葉の意味で戸惑うことは、ほとんどないだろう。しかし、そのわかりやすさとは裏腹に、語り口に関する解釈の仕方については、相当の幅を持っている。『Zooey』を創り手自身からの私信として受け取るのもいいだろう、完全なるフィクションとしてメタレベルから眺めてみるのもいいだろう、私たちの奥底に沈澱した想いを代弁してくれるスポークスマンの声明として同調同感するのもいいだろう。各曲毎に、これらの語りの視点を行ったり来たり切り換えてみるのもいいだろう。「虹をつかむ人」は、生活というウスノロの中でしょげている女性を励ましている唄のようにみえる。表層的には、そんな女性たちへの応援歌として捉えるのが、普通といえばフツウだ。しかし、創り手は「この曲は実はそんな彼女たちのそばにいた男たちのための曲かもしれない」と伏線を張る。そう解釈すれば、唄の趣はガラリと変わってくる。

 たしかな君よ、未経験な君よ、時間が許せばこのようなたくらみ・仕掛け・トラップを愉しみながらポップソングを聴いてみてほしい。

 「この先へもっと」と言われても、私たちには今だその勇気は湧かない。「人生は美しい」と言われても、満身創痍のただ中にいる私たちには「いまさら」の遅すぎる慰みとしか映らないだろう。でも、私たちは既に未体験ゾーンに片足を突っ込み、「いまさら」後戻りはできない。私たちが負ってしまったキズも、拭おうにも拭い去ることはできない。だけど君は、「それは自業自得だよ」と私たちを切り捨てるかもしれない。
 たしかな君よ、未経験な君よ、それでも迷いもがく私たちと一緒に前に踏み出すことはできないか。このクソまみれの世の中(私たちがその片棒を担いできたことは、重々承知している)を、共に歩みを進めることはできないか。

 ところで君よ、10ccの『愛ゆえに』というアルバムを知っているかな?その中の曲に、こんな歌詞がある。

A compromise would surely help the situation
Agree to disagree but disagree to part
When after all it's just a compromise of
The things we do for love, the things we do for love...
(Written by Eric Stewart and Graham Gouldman)

 ポップソングのお手本のような、この一節。狂恋でも閨事でもロマンティックでもなんでもない、しかし、互いが相手を想い慕うが故の融和。これが常日頃、人が「愛のために やっていること」じゃないか。そして、愛する者同士がこれまでを振り返ってみた時、「愛のために ふたりがやったこと」と首肯するのかもしれない。

 たしかな君よ、未経験な君よ、なにはともあれ『Zooey』の次は『愛ゆえに』だ。

 この世の歯車が狂い、綻びが露わになってきていることは、君にもわかっているはずだ。それは、「あるべきものが、あるべき理由で、あるべき場所にある」といったあたりまえが、人の強欲や都合により歪められているということに他ならない。稚拙な例になるが、なぜ活断層の上に原子力発電所があるのか?そんな疑いが出てきている事自体が、もう常軌を逸している。しかし星空には、あるべきものが、あるべき理由で、あるべき場所で輝いている。純然たる調和、紛う事なき道しるべ、真実の燦めき。
 たしかな君よ、未経験な君よ、あるべき理由や場所が見つからない時は、下を向いて小さな画面をぼんやり指でなぞるより、夜空を見上げ心眼を開け。それに限る。

 散歩はいいよな、とにかく気持ちが晴れるから。愛っていいよな、とにかくナゾだらけだから。

 たしかな君よ、未経験な君よ、A面はここで終わる。

 今のご時世、詩人ほど虐げられている存在はない。なにしろ、芸術文化をかなぐり捨てての経済優先上げ底祭りの真っ最中だ。ニュースでは、加齢臭香しき老人たちが投資セミナーに奔走する姿が映っている。この指針は昨年の総選挙で有権者が選択したことで、大義名分ある国策となった。あれだけ大きなインパクトを被ったにもかかわらず、ね。そんな世の中では、詩人なんて役立たずと言われてもしょうがない。そもそも、詩人は偉人でも賢人でも何でもない。詩人とあだ名されていたアルベルトは、エロ小説の提供やラブレターの代筆をしたりして、閉鎖された集団の中でなんとか生き延びていた。しょせんそんなもんだ、詩人なんて。しかし、詩人には他の誰にもない抜群の嗅覚がある。それは宝物を嗅ぎ分ける本能であり、きれいなものを見分ける炯眼だ。そんな詩人どもへの敬意を、ギターバリバリのロックンロールサウンドに濃縮したのがB面の一発目にくる。

 たしかな君よ、未経験な君よ、 ガツンとくる曲をB面最初に持ってくるのは、ロックアルバムの常套手段さ。よく覚えときやがれ。

 ヒトの愚行が招いた、文明の渚。 穏やかで博愛に満ちていたはずの、私たち人類の栄光の渚。そこは今や瘴気が幾重にも漂い、汚泥が次々とうち寄せる。今まで通りだと、すぐにデッドエンドが大口を開いて待ち構えていることはわかっている。だけど、私たちは一度手に入れた快適さや利便性を、易々と捨て去ることはどうしてもできない。

 たしかな君よ、未経験な君よ、あなたたちは「世界は人間なしに始まったし、人間なしに終わるだろう」ということをよく知っている。私たちは、それを正視することが怖い。

 フラニーは言った、「詩人には、何かきれいなものがある」と。若き日の妹と兄を巡るイニシエーション・ミス(人生開眼の物語)を描いた小説がある。「詩人の恋」の二人と、その小説に出てくる兄妹の姿とは、どこか重なってみえる。

 たしかな君よ、未経験な君よ、耐えることは破滅に向けての前触れではなく、乗り越え点を凌ぐため人間に本来備わっている才幹だ。たぶん、その先にきれいなものが、厳然としてある。

 『Zooey』には、これまでの佐野元春作品に登場した言葉やアイテムたちが、何の気なしにひょっこりと再登場する。「モラルのハンマー」とか、オレは思わずニヤリとしてしまったな。 たぶん、スーパー・ナチュラル・ウーマンは、今日も水の中のグラジオラスを愛でている。大上段に構えた言い方をすると、『Zooey』ではバルザックの『ゴリオ爺さん』的な再登場法が随所で繰り広げられている。今ごろ昔からの聴き手は、「あっ!この言い回し、懐かしい」とか「この唄はあの唄の続きなんだよね」と、楽しく『Zooey』を育むことに励んでいることだろう。

 たしかな君よ、未経験な君よ、 同時代を併走する表現者と受け手は、こうやって共に作品を成長させていくことができる。たとえ、それがロックアルバムだとしてもね。

 君は、訊いてくる。「『二人はピーナッツ』の、ピーナッツってどういう意味よ?」と。いい質問だ。それは、昭和を代表する姉妹デュオ=ザ・ピーナッツが、佐野元春の頭をよぎったからに相違ない。「トーキョー・シック」を唄っている途中にでも閃いたんじゃないかな。作品を生真面目に解読しようとすると、逆に創り手から梯子を外されるという返り討ちに遭うことが多い。とんでもないやつだよ、まったく。

 たしかな君よ、未経験な君よ、 唄の詞なんてだいたいそんなもんだぜ。勘ぐるのも、ほどほどにしときな。

 そして、最後に。

たしかな君よ、未経験な君よ。人の尊厳は何よりも尊ぶことだ。
たしかな君よ、未経験な君よ。誰もが誰かにただ愛されたいだけなんだ。