佐野元春『BLOOD MOON』
記号とワクチンと予兆
中野利樹 (TOSH NAKANO)

 フランスの思想家ロラン・バルトが1970年に、西洋社会が意味の帝国であるのに対して「日本は記号の帝国である」と言った時、その記号は「人々を効率よく従わせるための、絶対的権限を付与された、意味への要求を巧妙に無効化させてしまう指示、命令、操作、決定の表象」を指していたが、彼が2015年夏の日本の街中にいたなら、イヤホンの人を見つけて近づき、にっこり笑って言ったに違いない ―― 「佐野さんの『BLOOD MOON』はないのかい?」。

 バルトの洞察と理論の今日的な、逃れ難い必然として、日本は今ひそかに、または公然と自分自身を欺き始めている。ものは取り組まれる一方で吹き溜まり、皮肉られ、遮り、面白がられ、食ってかかり、当然の顔をし、鈍り、翌日には忘れ、そうすることの自動的な蓄積なり残骸なりが、結果としてこの国を「人々が人々として生きるに値する場所」から遠ざけていき、国を単なる「経過の産物」に、単調な順延と延命の対象に近づける。そしてそこへと至る静かな喧騒が、人々から人々の内容を奪い、国から国の暦を粗雑にむしり取る。誰もが胸に手を当て、誰もが「でも別に自分のせいじゃないしなあ」と自身に答える。

 問題はその自己診断が間違っているからではなく、正しいからである。正しいがゆえに、相応の動機と契機は人々に生じず、記号もまた、無傷のままで延命される。明日の世の中が、今日の世の中とほとんど見分けがつかない最大のロラン・バルト的からくりは、そこにこそ、あるのかもしれないが。しかしとにかく、2015年夏の日本にやって来たバルトは、最新のおもちゃに熱中する子供のように体をゆすって『BLOOD MOON』を聴きながら、スマホの電子辞書をいじって「JAPAN」を探す。『… (脚注) 現在の日本を動かしているのは、おもに2つの記号、政治的記号と営利的記号に集約される。それらは病と壊死の記号、防御と容認の記号、画策と誘導の記号でもある』。自分自身の深刻な病状は巧みに隠し、記号はウイルスとして、休みなくスローガンを媒介する。「考えるな。黙って従え。飛びつけ。喜んで買え」。一生ずっと。ただ、幸せに。

 <キャビアとキャピタリズム>で佐野元春は、そのスローガンのウイルスが持つ暴虐と欺瞞と催眠性の根深さを鋭角に、実寸に切り取る。「裏技を使って / 売りぬけ」「そうさ / 世間なんて / そんなもん」「それが / 市場原理主義」「でも誰が / マトモに / 聞くもんか」。それは最初は典型的な糾弾と罵倒に聴こえるのだが、そう語る彼の声の吐き捨てに生じる、微細な抑制の推移に次第に聞き取れるのは、忘れてなるものかという深い彫刻、自分にそれが継続出来るかという長い往復である。耳にするものは、味気ない記号に対する味気ない直線的な抗議から、意思と自問を伴った「強烈な持続」の色合いを帯び始める。

 物事は、内容の問題であるとともに程度の問題、節度の問題でもある。それらを測るマグカップから溢れてこぼれたもの、そこに向ける知覚の整形と研磨、磨き加減がこの曲を「よくある社会派ソング」から引き離し、異質な、異彩を放つものに整え、聴く人それぞれの耳に、それぞれの「忘れてなるものか」を置いていく。押し付けや強制といったものを介さずに、それぞれの意思に「意味」を添えて自問させるのだ。盤石無敵の記号ウイルスに対する、現在有効なワクチンとしてである。

 バルトが喝破していた日本独特の無味乾燥の吸血記号、何ら語らず、こそりともしない無生命の記号を、血液が自在に循環する、西洋社会でいうところの「意味」に変えようとするプレイ、この国で現在機能している様々なものの様相を、元々の姿や価値に差し戻そうとするプレイ、それがこの曲が跡に残す実質、このアルバムが音に残すプレゼントである。「結局 /誰かの / 都合のせいさ」。ワクチンが聴き手の体内に抗体を作るのを全力で助けるように、鮮烈なギター・ソロが言葉のあとを引き継いで、聴感上の空間をメスの如く切り、裂き、別の空間を縫い合わせる。この曲に続く<空港待合室>、6曲目<新世界の夜>のギター・ソロも同様の機能を果たす。それは、午前3時のブラック・ジャックの執刀である。

 『BLOOD MOON』の至る所でその免疫作用、抗体作用、再生作用が生じる。先の「日本の情勢」のような大きなものだけでなく、より個人的な、皮膚感覚を伴うテーマ、日常の人間関係の機微についてもだ。<本当の彼女>では、街で見かける、魅力的だけれども同時に近づき難い女性に「彼女のこと / 誰も / わかっちゃいない」。佐野元春は「僕以外は」と自慢しているのかというと、はずれである。彼自身もわかっちゃいない大勢の1人なのだ。そこに働くワクチン免疫は「ものごとは、見かけのままとは限らない」であり、わかっちゃいなかった彼は、わかっちゃいなかった全員に向けて、新しい別の抗体を差し出す。視点の拡張と変更を。見ようとしなかったものを見る、見落していたものを探し出してすくう。それで彼女を以前より分かるかどうかは分からない。拡張も変更も、実際には容易ではないからだ。けれどもその免疫と抗体は「でもやってみる価値はある」と告げる。穏やかに、さり気なく、深く。<本当の彼女>は、そうして個人の再生を静かにうながす。

 このように『BLOOD MOON』には扱う主題の間に溝が、格差が、優劣がない。お題目として政治批判や社会風刺は大切、だから個人の細々したあれこれは、結果として二の次、とは異なる。12曲のどれもが「日本に生きるひとりの人間が、ある時点で思ったこと、遭遇したこと、考えたこと」であり、どの曲も同じように酸素を吸い、水を飲み、眠りに就く。その公と私の、内と外とのパラレル性、連続性が1曲の中で最も顕著に聴けるのが<バイ・ザ・シー>で、「考えるなと / 誰かが言う / 夢など見るなと / ひとは言う」。流れるように軽快なボッサ由来のリズムを背景にすると、あのウイルスのスローガンを含んだその歌詞は、ドキっとするものだ。それが神経の内側に食い込んでいったかと思うと、佐野元春はさらに決定的な助言の警句をねじ込む ――「繰り返し / 繰り返す間に / いつのまにか君を / ゼロにしてしまう」。聴き手は記号ウイルスの性悪さ、難敵ぶりを思い知らされる。そしてわずか2秒後、続く1行の開放と転換に、今度はあっけにとられる ――「週末は / 君と街を離れて / 海辺のコテージ / バイ・ザ・シー」。

 人は悩んでいる間、本気でじっと考えている間、自分の生活を自由に止めてしまえるわけではない。比喩として「人生の一時停止」とは言うものの、現実としてはそれは不可能であり、生活が生活のままで続くからこそ、そこに生じる悩みや思考も切実なものになる。すなわち、人間は悩んでいても、コテージに出かける。あるいは悩んでいるからこそ、出かける。気晴らしや遠出、心の換気、場所や環境の変化が与える、思わぬ肉体と精神の活性。そういった「移動がもたらす意外」の効用と可能性が、なんでもない先のコテージの1行に凝縮される。<バイ・ザ・シー>はゼロに対する自省とコテージの息抜きを等価にし、両方の行為をゼロ以上に、数値で測れない実利に転じる。

 『BLOOD MOON』では、登場してくるあらゆる声が基本的に無作為、非装飾、自然主義的であり、必要最小限の高感度な処理だけを通したそのほとんど生の、むき出しの声は、ある時にはスピーカーやイヤホンの位置よりも、もっとずっと近くに感じる。その物理的距離が心理的距離にも作用する。このアルバムの佐野元春は街中の舗道ですれ違う佐野元春、駅ビルのカフェで隣に座っている佐野元春であり、その生の身近さが、コヨーテ・バンドの同様に親密で濃密な、ガシッと引き締まった低重心の絶妙なアンサンブルと不可分に一体化しているため、このアルバムでは音像が「歌手と伴奏」のように分離して聴こえる瞬間、別々にこしらえたと感じる瞬間がなく、それがないことが1つ1つの曲を、独立した、長く持ちこたえる不変の塊にしている。ライヴ録音を基調とした自然主義で鍛造された、日常というドラマの、耐久性の高いハイ・セラミック、強靭なジルコニアの塊にである。

 そのドラマはアルバムの中心部<私の太陽>で、自然のまま爆発する。間奏のピアノ・ソロは聴感上、アルバムにおける太陽の重力に匹敵、相当するものだ。それなりの音響システムで聴けば、文字通りまさに鳥肌が出現するそのピアノは、曲の音像自体からはみ出し、スタジオの上壁、聴いている部屋の天井を突き抜けて、太陽を必要としない夜の天空に達する。たった1つのピアノ、決して耳をつんざく大音量ではない普通のピアノがだ。「壊れたビートで / 転がってゆくだけさ」。そのビートとはいにしえの、伝説のボ・ディドリー・ビートの素晴らしい応用変形であり、結びのギター・ソロが、そのビートを発射台にして先の天空にそそぐ。どこまでも、終わらないで欲しいとこの曲に、そのギターに願うまでずっと。

 最終曲<東京スカイライン>の間近で旋回するマンドリン、彼方で響く警笛のようなギターを聴きながら、それは「兆し」「知らせ」でもあるのではないかと、しばらくの間、その旋回と警笛のこだまを追うように、考えを巡らせた。着眼と看過、自律と他律、統合と分断、行動と思索、過剰と不足、嫌悪と愛着、準備と狼狽、創造と模造、個人と集団、言葉と心。目には見えないそれらの前触れ、導線、予兆が『BLOOD MOON』の全篇に、サウンドと声との解かれるべき符号、聴かれるべき深層として記録され、織り込まれている。

 ブラッド・ムーン ―― 皆既月食で紅く染まる月、それは天変地異や人為の政変がもたらす負の予兆とも、あるいは肉眼で見た人の潜在意識に作用する正の予兆ともいわれる。『BLOOD MOON』のカヴァー・デザインは、その紅い月の写真やイラストではなく、ルービック・キューブ大の木製ブロックを縦に十数個、無理やり頭上に重ねた7、8人の男女が、いずれも背を向け、バランスを取ろうと不自然に両手を広げて立っているもので、これが本篇の音楽に劣らず、興味深い。カヴァーのその構図は、シュールレアリスムの巨匠画家でポップ・アートの父の1人、ルネ・マグリットの有名な1953年絵画『ゴルコンダ』を連想させるのだ。たくさんの黒づくめの紳士が黒い雨粒のように、黒い流星のように、黒い放射能のように、直立して宙に漂っている超現実主義の絵である。

 一方『BLOOD MOON』の男女はというと、キューブを乗せたまま窮屈な格好で、どうにか現実の地面に立っているのだが、デザインの中央部に、そのキューブを全部落としてしまった男性がいる。「あー」という感じで両手を手前に広げて静止し、「しまった」といった表情で、地面に落ちたキューブの群れを見下ろしている彼。落胆しているのだろうか。いや、彼は驚いているのだ。キューブの重荷から解放された自分自身の久しぶりの身軽さに。取り戻した自分、やって来た自分 ―― その認識と五感の、知らされざる回復と更新にである。それはちょうど『BLOOD MOON』以前と以後の、リスナーの身に起きる事を思わせる。断絶していた自分の古びた記号に、また紅い血を送るように。