沸騰する言葉とソリッドなロック
小尾 隆

 空があり、大地があり、そこで人々が背中を向けながら立ち尽くしている。そんな七人それぞれの頭からは奇妙な柱のようなものが伸びている。それが何を意味するのかは見る者たちの想像に委ねられているものの、筆者には旅の途上の重荷や、生きていく上で背負う十字架のように思えてならない。イギリスのストーム・スタジオスに依頼したこの黙示録のようなアルバム・ジャケットと収録された佐野元春の歌たちとは、互いを呼び寄せ合いながら響き渡っていく。佐野がコヨーテ・バンドとともにレコーディングに臨んだアルバムとしては第三作めとなるこの『Blood Moon』を、一体どう説明したらいいのだろうか。

 深みを増した演奏や入念に描かれたサウンド・デザインは聞く度にハッとさせられる。荒れ狂うソリッドなギター・ロックがコヨーテ・バンドの生命線だが、それだけではない。今回はとくにブラック・ミュージックに源泉を辿れるようなリズムのヴァリエーションがあり、複雑に入り組んだ迷宮のようなアレンジがあり、また渡辺シュンスケによるイマジネイティヴなキーボードがバンド・サウンドに広がりを与えている。結成当初の06年頃はまだまだ若さ故の稚拙さもあったコヨーテ・バンドが、度重ねられていったツアーやレコーディングでの経験を活かしながら、ここまで成長したことに杯を上げたい。

 むろん歌の主人公はかつての無鉄砲な若者のままではいられない。”きみの幻を守りたい”と叫んでいたかつての青年が時間と試練を経て大人になった姿。それが近年の佐野元春のソングライティングを味わい深いものにしている。そこに冷戦が終わってからの不穏な世界情勢(テロイズムと民族主義と不寛容の時代)がひたひたと彼の足元を揺らしているのだから、本作での佐野元春がいつもにも増して焦燥を抱え、ときに怒りの表情を露にしているのはごく当然の姿なのかもしれない。そういえば2014年の秋に行われた全国ツアーで、佐野は彼としては異例とも言える政治的な発言をした。ひとつはヘイト・スピーチへの警告。もうひとつは現政権への異議申し立てだ。無論これまでも「国のための準備」というポリティカルな曲を発表して危機感を募らせてきた佐野だが、ツアーでのメッセージからこの『Blood Moon』に収録された曲群までが、切迫感とともに連なっていく様に今という時代の困難な様相を感じずにはいられない。

 アルバム冒頭に置かれた「境界線」でのシリアスな認識は過酷な現実世界の写し絵となるようだし、続く「紅い月」は夢と理想に燃えていたかつての青年の苦い後日談。さらに3曲めのアクースティック・ナンバー「本当の彼女」では、日常に暮らす女性へとふと視点を戻していく。アルバム序盤のこうした遠近法のような展開は、佐野の音楽ともに長い歳月を歩んできた聞き手たちの道のりをそのまま照らし出していくようだ。「本当の彼女」でスケッチされたその人は、かつて「情けない週末」で”街を歩く二人に時計はいらないぜ”と行く宛のない夜を闊歩していたカップルの片割れかもしれない。「レイナ」で子供たちを寝かし付けながら夜明けを見つめている女の人かもしれない。

 世界を思索する詩人の想いが極まるのはアルバム前半最後となる「新世界の夜」であろうか。怒りの感情が沸騰点に達するのは後半に置かれた「キャビアとキャピタリズム」だろうか。”どこかの教祖になりたいか、誰かの神になりたいか”という激烈なライムをヒップホップ的なビートに乗せながら畳み掛けてくる「誰かの神」での佐野元春は、まるで無名のストリート・ラッパーであるかの如く。地位も名声もある佐野が、それらの虚構をかなぐり捨てるかのような姿に驚かれる方も多いのではないだろうか。シビアな現実世界に異議を申し立てながら、暗澹たる未来図に警告を促す彼のアティチュードが隅々から感じ取れる。しかし、佐野はこれまでもずっとそうだったように、特定の誰かを激しく糾弾したり、自分の方に正義があると言わんばかりに旗を振りかざすことはけっしてしない。むしろ聞き手にこう委ねるのではないだろうか。少し考えてみようよ、と。「空港待合室」から「東京スカイライン」へと連なっていく終盤の構成がまた鮮やかだ。映画『ラヴ・アクチュアリー』(リチャード・カーティス監督:2003年)で描かれていたように、空港は駅や交差点と同じように出会いと別れを象徴する場所であるが、そんなエアポートの光景を切り取った「空港待合室」を、あの残酷過ぎた9月11日の悲劇と結びつけてみれば、佐野のリリックのなかから、空港を行き交う愛おしい人々の姿が、確かな輪郭とともに立ち上がってくる。

 アルバムの最後を占めるのは映画のエンドロールのような「東京スカイライン」だ。世界中を旅した佐野元春が母国の空港に到着した後のスケッチと言ってもいいだろう。旅を終え飛行機から降りた彼は、然るべき手続きを終えた後、車に乗り込みながら東京の街を遠巻きに眺めながら、”この街の夏が過ぎてゆく”と歌っている。傷の手当もせずに過ごした日々や、自分たちは防弾チョッキを着ているんだと思い込んでいた歳月とは、明らかに様相は異なるだろう。むしろ逆に重ねていった歩み故に幾つかの痛みや喪失を伴うものに違いない。それでもぼくは”感じたままのど真ん中をくぐり抜けてゆく”自分でありたいと願いつつ、また一曲めの「境界線」から繰り返し『Blood Moon』を聞き直す。壊れてしまった柱の断片を拾い集めながら。