“総合芸術”としてのロックを復活させた問題作
市川清師

 『がんばれ!ベアーズ』のようなバンドというには、実績も技量も兼ね備えるバンドである。ザ・ハートランド、ザ・ホーボーキング・バンドに続く、佐野元春の新しいバンド、ザ・コヨーテバンドとは既に10年近い月日を過ごしてきた。『COYOTE(コヨーテ)』、『ZOOEY(ゾーイ)』という名盤を輩出し、その間、全国のライブハウスからホール、フェスティバルまでを隈なくロードしてきた。

 佐野は昨年、2014年の夏、彼らとツアー中に「バンドとして、何度目かのピークが訪れている」と語っている。そんなバンドとしての成長が成果として実ったのが、佐野元春&ザ・コヨーテバンドの新作『BLOOD MOON(ブラッド・ムーン)』だ。

 ピークを迎えた彼らならではのグルーブとビートが脈打ち、息づく。60年代、70年代のロックやソウルなどを咀嚼し、そこにモッドな洗練された装飾を施し、ビンテージな響きの音を纏い、コヨーテにしか出せない音を紡ぐ。フィリーソウルの可憐と端麗、ラテンロックの妖艶と官能、ケルティックの滋味と芳醇、ロックンロールの推進と鋭利、ファンクな軽快と躍動、サイケデリックな幻想と覚醒など、その音の鳴りや響きは、彼らがいまだからこそ、出せる“ワン& オンリー”のものだ。最新流行の意匠を施すこともできるが、敢えて、そんな選択はせず、滑り落ちた音の欠片を拾い集め、コヨーテの咆哮となす。だからといって、ニッチやオタク狙いではない。まさにその音でなければならなかった。

 自分達がいま必要とする音だったのだろう。音楽的な手練手管、素養と手駒を持ちながらもひけらかすことなく、取捨選択しながら佐野元春&ザ・コヨーテバンドとしての音を奏でる。

 勿論、その音色や音圧は、古色蒼然としているわけではない。時代と確実にせめぎ合う。それらはミキシング・エンジニアの渡辺省二郎とマスタリング・エンジニアのテッド・ジャンセンの手腕もあることはいうまでもない。

 そんなグルーブやビートの海を自由自在に泳ぎ回る言葉達は、まさに2015年、「戦後70年」(戦前になるなんて、まっぴらだ!)という、節目の年に相応しいものばかり。

 佐野の歌の登場人物達は、いつの時代もこの不確かで許容しがたい現状や不条理へ異議申し立てをしてきた。時代にカウンターパンチを食らわす。その鮮やかな、攻め口は爽快である。ある種のカタルシスを覚えさせる。いつも以上に政治的(というか、社会的か)な言葉が並ぶが、ジャーナリストのようなルポルタージュではなく、そこにはシニカルでアイロニカル、ジョークやユーモアが込められる。そして、大人だけあって、セクシャルでもある。色気があるといっていいだろう。そんな大人達は暗澹たる状況にあってもペシミスティックやネガティブになることはない。佐野は“この時代に必要なのは官能とユーモア”と語っている。自己憐憫や感傷を廃し、自意識過剰になることなく、センス・オブ・ヒューモアを醸し、官能を包む。

 佐野のいまの言葉達は、この暑い季節の“街”に溢れるシュプレヒコールやプラカードに躍るメッセージとも響きあう。それらとは無縁なように箱庭で涼を貪る、腑抜けた音楽ばかりが幅を利かす。勿論、そういう音楽ばかりでないのは充分、承知しているが、ここでは敢えて、そう言わせていただく。少しは時代の空気や声を反映したものもあってもいいだろう。佐野は、いま、そこにある危機を包み隠さず描き、そこにメッセージとストーリーを織り込んでいる。

 2015年にリリースされることの必然性。克明に事実を抜き出す必要はないが、抒情を孕みつつ、叙事的に語られる。前作『ZOOEY(ゾーイ)』が2011年3月11日以降でなければ生まれ得なかったように、『BLOOD MOON(ブラッド・ムーン)』は2015年でなければ生まれ得なかったものだろう。当然の如く、ツアー中に書き溜められたものもある。むしろ、この空気を予見していたといっていいだろう。自ら“詩人はカナリアのようなもの”と語る佐野だが、誰もよりもいち早く、危険を察知し、警鐘を打ち鳴らす。

 アルバム・タイトルの日本題であり、同作のタイトル・トラックでもある「紅い月」は不吉な時代を暗喩している。象徴的な作品だ。私的にはタイトルから『紅いコーリャン』や『カオス・シチリア物語』を思いおこす。皆既月食や満月など、月の満ち欠けは人を狂わすともいわれている。かのピンクフロイドには『THE DARKSIDE OF THE MOON(狂気)』というアルバムもあった。

 時代や世界などと、大袈裟な表現を用いるのは気恥ずかしくもなるが、佐野が描いているのは、まさに狂気と正義の狭間に揺れ動く今の時代や今の世界。佐野は物語作りの達人であり、その手際や技巧は当代随一である。直裁な言葉を用いつつも、語られるべきドラマがそこにはあるのだ。

 「境界線」や「優しい闇」、「新世界の夜」、「キャビアとキャピタリズム」など、大人になった佐野元春の歌の登場人物達が躍動し、主張する。以前、佐野の歌を同世代には共感、若い世代には挑発をもって受け要られると評したことがあったが、まさに本作は世代や性別を超え、聞かれるべきものではないだろうか。問題作などというと、風呂敷を広げすぎかもしれないが、この世に問うべき作品であり、より多くの方に届くべきだと思っている。ロックが真に創造的であった時代には、時代を画する、そんな作品が数多あった。それらと比肩すべきものだろう。袋小路の時代を抜け出す新世界へのKEYがある。混迷のロックンロールの最終出口だ。

 佐野は音楽が聞かれる環境にも常に意識的である。本作も通常盤のCDだけでなく、CDとDVDを入れたデラックス盤が初回限定として、それにアナログ盤、ダウンロード、USBハイレゾ盤など、様々なソースを用意している。佐野は「4つのパッケージと1つのダウンローディング、この販売形態でやれば、ほぼ現在のリスナー側の音楽環境をカヴァーできている」という。

 特に注目すべきはアナログ盤である。実際にアナログ盤を聞いたわけではないが、1曲目から12曲目までをA①〜⑥、B①〜⑥ということを意識して、改めて聞くと、アナログ時代に感じたストーリーが蘇る。A①「境界線」の幕開けを飾るに相応しい溌剌から、A⑥「新世界の夜」の穏やかな収まりと座りの良さ、B①「私の太陽」の鼓動や囃子、ジャングルやブルンジのような躍動、B⑥「東京スカイライン」の夏の東京を描写した静謐な余韻まで。B面を聞き終え、また、A面を聞きたくなる。この感覚はブラックビニール盤がデフォルトだったアナログ世代には懐かしくもあり、CDやダウンロードしか知らないデジタル世代には新鮮ではないだろうか。

 アナログであれば、CD以上にそのビジュアルも訴えかけてくる。今回、佐野は英国のヒプノシスの流れを汲むグラフィック・チーム、ストームスタジオスにアートワークを依頼している。ヒプノシスは、いうまでもなく、ピンクフロイドやジェネシス、レッド・ツェッペリン、10CCなどのジャケットデザインを担当。日本のアーティストでは松任谷由実を手掛けている。ロック・ファンであれば、ヒプノシスは、イエスのジャケットでお馴染みのロジャー・ディーンとともに、ロック・レジェンドとでもいうべき存在で、それ自体がロック・アイコンとして認識もされている。

 ヒプノシスは、ピンクフロイドの一連のジャケットで、日常に潜む狂気のようなものを表現していた。ある種の危機感や違和感を孕む、この時代や世界の“ストレンジ”を描いているのだ。

 本作でも“BLOOD MOON(ブラッド・ムーン) ”をコンセプトに“作品”を生み出している。田園に佇む男性や女性の頭上にはブロックが積み重ねられ、少しでもバランスを失うと、崩れ落ちてしまう。実際、落としてしまい、途方(悲嘆!?)に暮れている男性もいるのだ。そこには危うさみたいなものが表現されているといっていいだろう。

 アートワークそのものは、ピンクフロイドのエンジニアとして活躍したアラン・パーソンズの『TRY ANYTHING ONCE(人生ゲーム)』を彷彿させる。同作は荒野に複数の男性や女性が宙吊りにされているというもので、『BLOOD MOON(ブラッド・ムーン)』が同作を意識したかわからないが、ある種、デザイン的な意匠は真逆ながら、通底するものがある。同じように危うさ、不穏な空気を孕んだジャケットである。

 ただ、曲や詞を作り、演奏し、歌うだけでない。聞く人達が音楽を聞くだけでなく、作品として愛でることができるという、ロックの楽しさを思い起こさせる。こんな拘りこそ、佐野らしい。音楽だけでなく、アートワークなどを含め、“総合芸術”としてのロックを復活させているのだ。

 佐野とヒプノシスという組み合わせ。蛇足ついで書き連ねると、彼は1984年10月にピンクフロイドのニック・メイソンのロンドンのスタジオを訪れている。同スタジオ(北ロンドンにあるブリタニア・ロウ・スタジオ。『The Wall(ザ・ウォール)』 、『Animals(アニマルズ)』 など、ピンクフロイドの名作が録音されている)の2階にはヒプノシスのグリーンバック・フィルムズもあった。

 彼自身、覚えているかわからないが、実は私がコーディネイターとして参加した、元サディスティック・ミカ・バンド、サディステックスの今井裕が組んだイミテーションのボーカル、CHEEBOのソロ・アルバム『PARADISE LOST(パラダイス・ロスト)』のレコーディングを同所で行っていたところを尋ねてくれたのだ。佐野はイミテーションに歌詞も提供している。

 その時、佐野は“ストリートの理想主義者”へ向けて、「私達に必要なのは知恵である」と語り、既に“鋼鉄のような Wisdom”という言葉も出ていた。そんな言葉が歌い込まれたのが、翌85年2月にリリースされた「YOUNG BLOODS(ヤングブラッズ)」だったのだ。

 さらに、こじつけめくが、『BLOOD MOON(ブラッド・ムーン)』の1曲目「境界線」が「YOUNG BLOODS(ヤングブラッズ)」同様にフィリーソウルのモードで飾ったナンバーであるという偶然が必然のような気もしている。血縁関係ありか!?

 佐野は今年、2015年にデビュー35周年を迎えた。35周年など、まるで演歌や歌謡界の大御所のようだが、いまだにこうして新作を聞けたり、彼について語れることが嬉しい。誇らしくもあるのだ。“懐かしの青春のヒットパレード”や“歴史的遺産”などにならない。常に現役であり続ける。

 今年も“暑い夏がそこまで来ている”──佐野元春は私達の“ブルース”を歌う。日本の夏は彼がいれば大丈夫。乗り切れる。勿論、夏だけではなく、春夏秋冬、季節問わずだ。