『BLOOD MOON』に描かれた悪夢と希望
山本智志

 待たれていたニュー・アルバム。『ブラッド・ムーン』というタイトルからは緊迫感が伝わってくる。アルバムの2曲目に置かれた「紅い月」の英語の副題が“Blood Moon”であることからも、この曲が今回のアルバムを代表していると考えていいだろう。
 1960年代末に「Bad Moon Rising」という曲があったことを思い出す。赤い月は不吉な前触れと言われる。しかし、いまの日本でわれわれは、不吉な前触れどころか、悪夢のような現実を目の当たりにしている。

 これまでの佐野元春のアルバムとはかなり印象の異なったカヴァー・デザインが、目を引きつける。ヒプノシスとマグリットを合わせたようなそのカヴァーを担当したのは、ピンク・フロイドなどのアルバムで知られるイギリス人デザイナーだが、カヴァー・コンセプトは佐野本人によるものだ。
 そこには木製の立方体を頭に積み上げた人々の姿が写っている。ちょっと動けば、頭の上のキューブは崩れ落ちてしまう。危ういキューブは、われわれの夢や欲望の象徴なのか。それとも、誰かが一人ひとりに課した負荷なのか。
 アルバムを聴き進んでゆく。「これまで以上にメッセージ性が強い」というのが、たぶん、このアルバムに対する多くの人たちに共通した印象だろう。
 佐野は、世の中の憂えるべきさまざまな状況を次々と挙げ、コヨーテ・バンドの引き締まった演奏をバックに、むしろ感情を抑えるようにうたっている。うたいかたによってではなく、歌そのものに語らしめるというやり方だ。そして、ひととおりアルバムを聴き終えたとき、われわれは佐野元春から「どんな気がする?」と問いかけられているような気になるのだ。

 「紅い月」で佐野は、《愛とか自由について語り合ったあの頃》と落ち着いた調子で切り出す。そして、《私たちはおとなになった》が、その内実は《忘れることだけがとても上手になって》いるだけだと、シニカルに言い放つ。
 佐野はさらに続ける。《人生は短い》《夢は破れて すべてが壊れてしまった》と嘆く一方で彼は、《心を偽らないで》《もう一度 好きなように踊ろう》と聴き手に語りかけるのだ。

  「いつかの君」も同じテーマを扱っている。副題は「Hard Times」。“つらい日々”、あるいは“厳しい時代”をうたってはいるが、そうした歌を佐野はロックンロールのビートに乗せる。
 《もういちど 元いた場所に戻っていけばいいよ》《もういちど いつものブルースに揺れてゆけばいいよ》という一行が、聴き手のささくれ立った気持ちを包む。聴いているうちに、歌詞には載っていない“Yai Yai Yai Yai Yeah Yeah”というシャウトにも「意味」があると思えてくる。この歌は、ここ数年の沢田研二がうたっている歌や彼の活動ぶりを連想させる。きっとジュリーもこの歌をうたいたいと思うことだろう。

 去年の秋のツアーで聴いた(はずの)「優しい闇」は、このアルバムでさらに強い印象を放っている。
 佐野は率直にうたう。《ひとはあまりに傲慢だ 帰り道をなくしてしまっているのも知らずに》。そうしたぞっとするような現実認識を示し、《約束の未来なんてどこにもないのに》と吐き捨てる。このアルバムの中で最も悲しい部分だ。
 怒りや絶望などネガティヴな事柄をうたうとき、逆にポップで明るいメロディーやサウンドと組み合わせてみるのだと、佐野は語っていたことがある。そのことからすれば、『ブラッド・ムーン』にポップな曲調が多いのは、佐野が深刻に考えていることの裏返しだということになる。

 「バイ・ザ・シー」は思わず身体が動きだしてしまいそうなラテン・ロック。この曲は、アルバムの重苦しいムードと鮮やかな対照を見せる。
 《週末は君と海辺のコテージで静かに過ごそう》とうたわれているが、“週末は別荘で”といったセレブのハイライフを賛美しているわけでは、もちろんない。歌の主人公は、週末だけでも都会を逃れ、ガールフレンド(あるいは妻)と一緒に静かに過ごしたいと望んでいるだけだ。
 波の音を感じながら静かに過ごす、そんなささやかな幸福感。それが都市生活者の憂うつと背中合わせになっている。彼は《本当に欲しいものは何》と彼女に尋ねる。答えは《美しい経験》と《眩しい永遠》。彼らはいつか、それを手にすることができるだろうか。

 アルバムの中で最も感情を直截的にぶつけてくるのは、「誰かの神」と「キャビアとキャピタリズム」だ。この2曲では怒りや皮肉っぽいものの見方が渦を巻いている。とくに、逆説的な「誰かの神」には、佐野元春のもうひとつの重要な部分が見て取れる。
 コヨーテ・バンドの力強く熱いロック・サウンドは、歌のこんがらがった感情を支える。軽率な評価を許さないシリアスな問題があふれる歌には、彼らの毅然としたバンド・サウンドが合っている。

 おそらく『ブラッド・ムーン』は、“メッセージ・ソング”的な側面が取り沙汰されることだろう。事実、このアルバムには現代を生きる人々の感情がむき出しになった歌が少なくない。
 ただ、佐野は時代の病理を告発し、それらを社会から一掃しようと訴えているのではなく、個人的な視点や心の動きを通して、この国の現状や現代に生きる人々の姿を冷静に描いているのだ。その姿勢は熱意に満ち、率直で果敢なものだ。

 内外を問わず、ポップ・ミュージックのソングライターの中には、まるで自分の日記の一部にメロディーをつけたような歌を書いて、それで歌の真実味が増すと勘違いしていた者が少なくなかった。私小説的な作風を持つ作曲家、あるいは告白的シンガー・ソングライターたちは、好意的に言えば、「自らの人生から歌を引き出そうとしていた」のだ。
 佐野元春はどうか。彼は常にそうした一群から離れたところに身を置いた。そして自分が、’80年代に幅を利かせていた“ニュー・ミュージック”(その後のJ-POP)の陳腐さを寄せつけないほどに聡明な、ロックンロールのソングライターであることを証明してみせた。佐野は彼らとは逆に、「自分の歌から人生を引き出した」のである。
 もちろん、実話に基づいた歌が佐野にないわけではない。彼の曲は、感情的にはほとんど「実話」だとも言える。
 だが、彼は一貫して「フィクションの中にどれだけリアリティーを生み出せるか」という試みの中で曲作りに取り組んできたロック・アーティストであり、芸術的な領域に足を踏み入れるほどの作家性を持った、“日本語のロック”の貴重なソングライターであり続けた。

 佐野元春の音楽は、彼が登場した1980年代初期における、若者世代の怒りや熱気の先頭に立つ表現だった。しかし、その時点ですでにそれらの歌は、歌の主人公がいずれ「大人の現実に直面せざるを得ない」という宿命を抱えていた。
 佐野は、歌の主人公に、実際に経過した時間と同じだけの年月を重ね、歳を取らせた。そうして新しい歌を書き上げてきたのだ。
 『ブラッド・ムーン』に浮かび上がるのは、「ガラスのジェネレーション」や「サムデイ」の主人公の、いまの姿だ。
 1980年代に多感な時期を送った「かつての若者」に向けられた「詠嘆の歌」――などというのは、『ブラッド・ムーン』をあまりに矮小化しているだろうか。佐野は、現代に正面から向き合っている。ヘヴィーな内容の歌が多いのは、彼の眼にはいまの日本がそのように映っているからに他ならない。このアルバムを貫く重苦しさは、暗雲垂れ込めたいまの時代そのものだ。

 アルバムは最後の2曲に入っていく。「空港待合室」の英題は“The Passengers”、つまり「旅行客」だ。
 多くの人々が行き交う空港。《誰もがまだ旅の途中》だ。佐野は、物静かにその光景を観察し、一人ひとりの人生に思いを巡らせる。
 佐野はうたう。《時が経って景色が変わった/けれど忘れられない歌がある/笑うにはまだ早すぎる》。佐野は決して諦めていないし、楽観してもいない。
 ふっとため息を落とすように《この街の夏が過ぎてゆく》とうたわれる「東京スカイライン」でこのアルバムは終わる。くぐもった空と高層ビルを背景とした東京のシルエット。美しくはないが、いまも愛すべき街。手を差し伸べるようなギター・ソロや優しげなマンドリンの調べが、かろうじて残った希望や意志を明日へと向かわせる。