「夢」という軛を解き放つ「試されること」への異議
高田洋

 夢破れた中心の男を俯瞰すればそれは自由の獲得に見え、夢のために自ら積んだように思わされている背中の人々はまるで逆位置の「The Hanged Man」のよう。試されることに慣れてしまった我々は「誰に」審査されているのか。佐野元春のBLOOD MOONは、試練は不要だと異議を申し立て、自由の主を我々に取り戻そうとする。

 年齢と時代に誠実であり続ける佐野元春は世代に媚びない。年齢だけ、時代だけを慮る者は自らの世代に逃げるが、佐野元春は逃げない。だからこそ、どの作品も普遍であり続ける。「つまらない大人になりたくない」を背負い続ける彼は、だから「大人は信用するな」という。自らのイノセントに忠実であれと。

 BLOOD MOONでは夢が懐疑される。一人ひとりに、その夢は誰のものかと問いかける。その夢は、いつのまにか誰かのものになっていやしないかと問いかける。資本主義から宗教に至るまで、他者から約束された一切を疑う。時に深刻に、時に優しく、夢の偽名を暴く。

 代わって、丁寧に切々と繰り返し提示されるのは自己という大切な存在である。選択させられ、試験させられ、審査させられ、競争させられ、闘争させられ、そうさせる主体への、試されることへの異議申し立てである。静かに、あるいは、激しく、我々のもとに取り戻そうとする主権回復への意志である。

 自分が敷いたものでもない夢に向かう者は月の色が変わっていることに気がつかない。

 『COYOTE』で自立を、『ZOOEY』で連帯を、そして、『BLOOD MOON』で主権を。それは、いつかサヨナラしたはずの革命のようだ。それが必要とされなければよかったのだが、自由のための不断の行いをせざるを得なくなっているのは、残念ながら確かなことなのだろう。

Nたちのため(高田洋)