ボヘミアンの墓 佐野元春佐野元春


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諏訪優氏との親交について記述された佐野自身の文章。
マガジンTHIS1995冬号 (Vol.1 No.1) に掲載された記事から転載しました。
copyright 1995 Motoharu Sano

 今回の取材について補足的に付け加えるならば、最後にインタビューのとれたゲイリー・スナイダー氏に関係する、僕の個人的なストーリーを述べることにする。

 二年前の冬、詩人の諏訪優氏が亡くなられた。享年69歳。50年代、白石かずこ氏らとともに「荒地派」と呼ばれる詩人グループを結成。ご自身の作品を発表するかたわら、アメリカのビート作家の作品を翻訳する。文学看の視点から一連のビート・ムーブメントに批評を加え、事実上日本におけるビート文学の紹介者として知られた。特に諏訪優氏によるアレン・ギンズバーグの代表作「吠える」(原題 "Howl")の翻訳は、原文の持つ口述的なリズムを損なうことなくこの作品の持つ本質を確実に伝えたことで高い評価を得た。また一連のビート作家、アレン・ギンズバーグ、ゲイリー・スナイダーらとの親交も深く、ビート文学に関する日本とアメリカの文化交流の橋渡し的存在として貢献した。

  諏訪優氏とは1988年、ご自宅のある東京田端で開かれた氏が主催の詩の朗読会でお会いした。その後『現代詩手貼』の、「ビート・ジェネレーション特集」(1988年1月臨時増刊号/思潮杜より現在も入手可能)で、有意義な対談を持った。またよく僕のコンサートにも足を運んでくださり時折手紙による交換でお互いの近況を伝えたりした。諏訪優氏はことあるごとに僕を旅行に誘ってくださり、また氏が所有なさっているビートに関するすべての貴重な資料を惜しげなく提供してくださるという、身に余る申し出にたいへん恐縮した思い出もあった。

  ただ残念なことに、諏訪優氏が亡くなられる数年程前からお会いできる機会に恵まれず、そのうちゆっくりとお会いして親交をあたためたい旨を手紙に記して氏に送ったのが最後だった。僕は諏訪優氏の逝去という悲しい知らせを突然のできごととして受け取るしかなかった。もっと早くに連絡すべきだった。ただただ残念な思いだけが残され、それ以来諏訪氏のお墓に出向くことも何か後悔の瀞を深く広げてしまうだけのことのような気がして実現できず、失礼を重ねた。

 今回インタビューをしたゲイリー・スナイダー氏も諏訪優氏が亡くなられたことはすでにご存じだった。僕はゲイリー・スナイダー氏に思いきったお願いを切りだしてみた。スナイダー氏から諏訪氏へ追悼の言葉を綴っていただきたかった。僕はそれをもって諏訪氏のもとに墓参し、日米のダルマ業者をつなぐある伝令者としての役割を気取りたかった。生前スナイダー氏に深い尊敬の念をはらっていた諏訪氏なら、僕のその拙い行動の意味をわかってくれるような気がした。突然の申し出にも動じることなく辛抱強く耳を傾けてくれたスナイダー氏は、どうにか意を汲んでくれたようすで微笑みを交えながら、「わかりました。」と答えてくれた。

  数日後、僕の事務所にファックスが届けられた。そこには一編の詩が書かれてあった。

 

諏訪優に
ゲイリー・スナイダーより


語りの柔らかな友

夜行列車に乗って京都に来た君

銀閣寺のそばの屋台で

僕らは中華ソバをすすった

麺にくゆる湯気の向こうに

星がまたたく

比叡山のふもとの山小屋で

3畳問に座ったふたり

アレン・ギンズバーグやビートのことを話した

はちゃめちゃな言葉やフレーズ

君に教えようとしたっけ

10年後には北海道

僕と一緒に知床めぐりをした君

過ぎし日々

いく編かの詩と本、そして翻訳

あの夜の中華ソバをはさんだ

僕らの静かなる友情



(翻訳一佐野元春)


 東京に戻ってから数日後、僕は諏訪氏がまつられている北谷、法昌寺を訪れた。諏訪氏のお墓は木立に埋もれるようにしてひっそりと、しかし絶えることのない墓参者のお花に囲まれて建っていた。強い陽ざしが墓石に反射して淡い光の輪を作っているようにみえた。あるボヘミアンの墓だった。

  僕はゲイリー・スナイダー氏からの追悼詩を一度心の中で復唱してみた。その後、その追悼詩の書かれた紙の一片を注意深く墓石に置き、風に飛ばされることのないように路傍の石で支えた。

  遠くで野の鳥が二度さえずった。夏の昼下がり。あたりに一面、土と草の香りが広がった。