曇り空の彼方に描かれた一筋の光
小尾 隆

 「前作『The Sun』には様々な主人公がいました。男もいたり女もいた。彼らは自立した大人たちであり、普通の日常に生きています。彼や彼女が常識のなかで世界に生きている人物だとしたら、今度のコヨーテは彼らとは真逆ですね。そして、前作と違って今回の主人公はコヨーテという一人の男の視点で貫かれています。コヨーテはどちらかと言うとバッドでロウから外れている、アウトローのような存在。いわば生き続けるために生きているような男です。でも他人の痛みには人一倍敏感で、友だちも少なからずいる。自分に正直過ぎる一面も持っている。年齢的には18歳や19歳といった年頃ではなく、20代後半から40代前半くらいの、働かなければいけない年齢です。ひょっとしたら、養わなければいけない人がいるのかもしれない」

 やや、長い引用になってしまったが、筆者が先日行った取材で、佐野元春は『COYOTE』アルバムの'' 主人公 '' についてこのように解説してくれた。主人公がもうそれほど若くはないことや、けっして規範的な人物ではない点がユニークだ。そんな ''コヨーテ'' が道行くなかで景色を見たり、過去に関係した女たちや、自分に似た自分より若い男に出会う。そんな道中での一コマ、一コマを一遍の映画のように仕上げていったのが、この『COYOTE』アルバムである。

 コヨーテを自分自身になぞらえてみる。僕は音楽著述業なんていってみたところで、実際は企業社会、競争社会が嫌になって、落ち零れてしまった40代後半の男に過ぎない。移り変わる季節の風を感じながら午後のカフェや図書館で読書する気ままな生活を送っているものの、実は未来への不安におののいていたりもする。黄金色の天使を待ちわびつつも、生活といううすのろが日々の影となって追いかけてきたりもする。今朝はといえば、大切にしていた食器を割ってしまったばかりだ。やれやれ。そんな少しくたびれた、どこにでもいる男。コヨーテほどバッドな存在ではないかもしれないが、振り返ってみれば人々と必ずしも誠実に接してきたわけではない。そんな僕と同じような ''コヨーテたち'' は、きっと聞き手の数だけいるのだと思う。きっと暗闇のなかで自問を繰り返しているのだと思う。かつての恋人に宛てた懴悔に満ちた手紙のような「折れた翼- Live on」を聞く夜、僕は眠れなくなってしまう。

 それでも、コヨーテは自分自身であるべき姿を、自分の帰るべき場所を探し求めている。暗雲が立ち込め、外は今にもどしゃ降りの雨になりそうだ。ワインを用意して旅立ちに乾杯しているものの、グラスが置かれたテーブルからは海岸の崖っぷちが覗いている。そして何よりも自分の一番打ちのめすことは、かつての自分が描いたはずの夢に対して、他ならない自分が懐疑していることなのだ。これは何という皮肉だろう。果たしてコヨーテの旅に黄金色の天使は微笑みを投げ掛けるのだろうか?

 アルバムのテーマ曲ともいうべき「コヨーテ、海へ」が終わると、波の音がかすかに聞こえてくる。そして、しばらくの間があってから、まるでエンドロールのような最後の曲「黄金色の天使」が始まる。シンブルな音数であるが故に美しく結晶された、まるでザ・バーズの溌刺とした輝きを思い起こさせるような曲だ。今回はゲスト参加という形になったDr.kyOnが弾くハモンドB3・オルガンのロング・トーンがまたいい。終盤に置かれたこの2曲に繁ぎ止める雄大で、生命を宿した流れのなかに、僕は佐野元春の音楽を聞き続ける大きな理由を見つけている。

 重ねてきた年齢と釣り合うような苦みに満たされた佐野のヴォーカル。これがまた味わい深い。彼にブルース音楽(というスタイル)からの直接的な影響は殆ど見受けられないものの、明晰で情熱的な発声をする一方で、ちょっと口籠るような唄い方をする点に関しては、これまでも幾度か指摘されてきた通りである。

 かつて、'' 朝が来るまで君を探している ''と叫んでいた青年は姿を変え、ここでも懸命になって、'' また君に会えるのはいつのことになるだろう ''と歌っている。溢れ出る思いとともに歌っている。そしてこのアルバムを聞き終えた時、誰もが曇り空の彼方に描かれた一筋の光を見い出すに違いない。

 最後に。これはまったくの余談になってしまうが、桐野夏生が書いた小説「メタボラ」を僕は読み終えたばかりだ。苦悩に満ちた現代という荒れ地を彷徨う二人の青年の物語。そこには多くの自問と煩悶があり、耳を塞ぎたくなるような過酷な現実があり、辿り着くべき再生への願いが最後に込められている。そんな主人公たちを '' コヨーテ '' と重ね合わせてみる想像力を、佐野元春という音楽家は決して奪ったりはしない。