ポップの新しい地平へ
桜井鈴茂(小説家)

 しょせん、と強いて前置くが、ポップ・ミュージックとは、豊かな社会、べつの言葉を使えば、近代化を終えた国や地域に生きる人々の、喜怒哀楽を表現したアート・フォームに過ぎない。社会のインフラがおおむね整い、一定水準の自由や平等があまねく行き渡った上でも、なお人は満たされない思いを抱き、より上位の幸福(例えば自己実現)を求めてしまう。そこから生じる悲哀や葛藤や嫉妬や失意や希望が、ポップ・ミュージックのモチーフなのだと言い切ってしまってもそれほど極論にはならないだろう。

 端的な例を挙げるなら、ビートルズが「It's been a hard day's night And I've been working like a dog」と歌うとき、彼は法外な長時間労働や理不尽な搾取に晒されているわけでもなければ、生命を維持してゆくことへの恐れを感じ取ってるわけでもない。そりゃあ、パンを得るための日々の労働は決して楽ではない。もし、それが肉体を駆使する単純作業ともなれば、到底やりがいなど覚える類いのものではないはず。けれども、キツい一日を乗り切って「家に帰れば君がいる」し、そして「君がいいことしてくれれば」、ひどい「気分も直ってしまうぜ」と歌ったのが、「A HARD DAY'S NIGHT」だ。

 誤解を恐れずに言えば、ポップ・ソングに出来ることは、せいぜいこのくらいのことなのであり、しかしながら、このくらいのこと、つまり、現代社会を生きる人々の憂いを吹き飛ばすことに狙いを定めるのなら、ポップ・ソングほど威力を発揮するものはない。

 さて、翻って、現在の日本の状況はどうだろう。この21世紀初頭の日本社会で、ポップ・ミュージックは成立しえるのだろうか。ポップ表現は有効なのだろうか。そんな疑念がここ数年のぼくの脳裏に泥のようにこびりついている。そりゃ悲観的すぎるよ、とあなたは一笑に付すかもしれない。たしかにあなたの指摘はもっともでもある。それを端から否定しようとは思わない。GDPで計れば日本はいまだ世界第二位なのだし、首相はサミット=先進国首脳会議に出席し続けているし、それを実感する光景が、少なくともここ東京では次から次へと出現している。しかし、やはりそれでも、ぼくの首は歪な角度に傾いでしまう。

 図々しい物言いをさせてもらえば、この、いくら振り払おうとしても振り払いきれない疑念や危惧やためらいこそが、現在のこの国を生きる者のリアルなのだとぼくは確信している。そして、そんなリアルを蔑ろにしたポップは、十字架を背負っていないキリストみたいなものだ、とも。
 
 『COYOTE』は、重い十字架を背負うことを厭わなかった、とても勇敢で誠実なポップ・アルバムだ。どんな軽快なポップ・チューンからも、どんな扇動的なロックンロール・ナンバーからも、それが、伝わってくる。ある時はメロディをまとい、ある時はビートの粒子となって。この時代のこの場所で暮らしを営む者たちが抱えざるをえない、疑念が、苛立ちが、憂鬱が、焦燥が、空しさが、恐れが、迷いが、冷たい絶望が。そして、にもかかわらず、生きている限り泉のように湧き出てきてしまう、そう、生きていることそれ自体が肯定の一つの形態なのだといわんばかりの、喜びが。悲哀と諦念とを滲ませた、切ないけれど確かな希望が。
 
 収められた12曲のどれもがそれぞれに味わい深いが、とりわけぼくはラストの2曲、「コヨーテ、海へ」と「黄金色の天使」が好きだ。アルバムのタイトル・ナンバーでもある「コヨーテ、海へ」。こんなにも、打ちひしがれた、そしてだからこそ、慈しみに満ちた、とてつもなく逞しいロックンロール・バラッドをぼくは過去に聴いたことがない。打ちひしがれたコヨーテは、きっときみのことであり、むろんぼくのことだ。「目指せよ、海へ」と元春は歌う。「ここから先は勝利あるのみ」だと。そのように歌われる時、コヨーテであるぼくらがいささかたじろぎながらもぼんやりと目にしているのは、既存のポップの向こうに茫漠と広がるポップの新しい地平なのではないだろうか。

 うん、ぼくは信じてみたい。2007年のこの国でしか生まれ得なかったポップの新しい地平を。そして、それを信じるなら、エンディング・ナンバーの「黄金色の天使」は、その新しい地平への、慎ましやかな第一歩だ。それは、まるで終わりのように優しい、新たな始まりだ。エンディングの形をとった、たおやかなオープニングだ。いや、今こそ、かつて心を震わせた言葉を蘇生させるべきなのかもしれない。そう、「終わりははじまり」なのだ。

 前作『THE SUN』がリリースされてまもなく、現在は中学の教師を務める高校時代の親友からメールが届いた。そこには「元春が戻ってきたよ」って書いてあった。けれども、ぼくはその知らせをやり過ごした。なんだか怖かったのだ、かつてのヒーローである佐野元春が今の時代に感じていることに対峙するのが。あるいは、十代のぼくをあれほど高揚させたにもかかわらず、佐野元春のポップ・フィーリングへの猜疑心を拭いきれなかったのかもしれない。それから3年近く。神様の悪戯なのか、こうしてペンを執る機会に恵まれた。

 今夜にも奴にメールするつもりだ。--おれも元春のところへ戻ったぜ。

 Hello again, Moto. I'm coming back to you. Thanks!