賢者と少年-『Coyote』を巡って
片寄明人(Great3, Chocolat & Akito)

 世の中には「前向き」な歌が溢れている。喜々として希望を歌い上げる歌手もいれば、優しさが売りのヒップホップ・グループも星の数ほどいる。別にそれは悪い事じゃないんだろう、と思う。しかし、そのすべてに鼻白んでしまう自分も隠すことはできない。正直言うと「そんな陳腐な歌に励まされたくもない」と思ってしまうこともしばしばだ。かといって、被害者意識が見え隠れするような、凄惨でネガティブな歌など聴きたくもない。そんな日常に、佐野元春がポジティヴィティ溢れる新作『Coyote』を携えて帰ってきた。

 「どうして佐野元春のポジティブな歌だけが、ぼくの心に突き刺さってくるんだろう?」ぼくは自分がソングライターとして生きるようになってから、何度となく、このことについて考えたことがある。ネガティブな感情についての歌を書くということは、じつはそんなに難しいことではない。なぜなら世界は、いつだって当然のように悲しみに満ちているし、絶望させられるような事柄にも、飽きるほどに溢れているからだ。

 むしろそんな世界に身をおきながら、あえてリアリティのある希望を、嘘臭くならずに、歌い続けることほど、難しいことはない。その孤独な戦いをデビュー以来続けてきているのが、佐野元春というアーティストではないだろうか。
 佐野元春が「希望」を歌うとき、その裏にぼくは「絶望」を見る。
 佐野元春が「愛」を歌うときに、その裏にぼくは「憎しみ」を見る。
 佐野元春が「勇気」を歌うときに、その裏にぼくは「涙」を見る。
まるで、この世界に満ち満ちている「矛盾と二面性」を体現しているかのように。

 佐野元春という人間は、ぼくの知る限り、弱音をいっさい吐かない男である。何度か訪れた『Coyote』のレコーディング現場でもそうだった。様々な困難が訪れても、いっさい怯まず、動揺することもなく、いつもユーモアを片手に、笑顔で切り抜け、そして周りにいる誰もが出来るはずもないと思ったことを実現させてしまう。でも不思議なことに、そんな彼の姿からは、スーパーマン的な強さをまったく感じないのだ。むしろ、一言も口に出さないからこそ、その奥に潜んでいる「闇」や「絶望」の存在を感じ、それに対して、年齢を重ねたいまも、「少年性」と言い換えることも出来る「純粋さ」だけを武器に、まるでドン・キホーテのように戦っている姿を感じてしまうのだ。

 そんな佐野元春が歌う「希望」の歌だからこそ、こんなにも心を打たれてしまうのだろう。彼はほんとうに絶望的な「この荒地の何処か」から、こんなにも希望に満ちたメッセージを歌い続けている。それがわかるからこそ、直感的に「ニセモノ」ではない、「インチキ」ではないことがわかり、心震えるのだ。そしてポジティヴィティ溢れる歌に、魂を舞い上がらせつつも、せつなさに胸しめつけられるのだ。いまの佐野元春の姿は、まるで「賢者」と「少年」を重ね合わせたようだ。それは佇まいから、喋りかたから、笑顔から、いつもぼくが感じてしまうことだ。考えれば考えるほど、ほんとうに不思議な人だと思う。

 新作『Coyote』の音楽面についても、触れておきたい。ザ・ホーボーキング・バンドとのアメリカン・ルーツ・ミュージックに根ざした音楽も素晴らしかったが、『Coyote』では佐野元春のもう一つのルーツでもある、ザ・ビートルズをはじめとした、ブリティッシュ・ミュージックの影響が久しぶりに露わになった作品だと、ぼくは感じた。これは今作に参加した、ぼくと同じ30代のメンバーたちの音楽的嗜好とも通ずることだ。僕らの世代は、完全なる第二次パンク、ニュー・ウェーブ世代であり、それを通過した上でブラック・ミュージックやアメリカン・ミュージックへと興味を広げていった世代だ。ぼくが思うに、ザ・ホーボーキング・バンドと『Coyote』バンドとの、最も大きな違いはそこではないだろうか。

 そして今回、数曲のレコーディングに参加して、痛感させられたことが一つあった。それは、サウンド・メーカーとしての佐野元春の、あまりにも濃いオリジナリティだ。あまり語られることがないのが不思議なくらいに、彼のサウンド・メイキング、アレンジ能力は、徹底して独自なものであった。バンドに対して曲が提示された段階では、いわばヘッド・アレンジ的にプレイヤーの個々の個性を出し合った、セッション的なアレンジに留まっているのだが、その後セッションが進むにつれて、佐野元春のあらゆる面にわたる、適切な指示が飛び交い、細かいリズムが変わり、決めのフレーズがはさまれ、独特なコード感が示され、印象的な転調が施され、そしてそこに出来上がるのは、まさにアルバム『Someday』(1982) 以来、ある意味変わることのない「元春サウンド」なのだ。

 今回のバンド・メンバーである、高桑、深沼、小松の3氏は、ぼくにとって長年の付き合いでもあり、彼らの音楽性についても熟知していたつもりだった。そんな彼らの「濃い」個性が、見事なまでに「元春サウンド」へと昇華していく様は、ほんとうに驚きだった。高桑とぼくは15年以上に渡って音楽を創り続けてきた仲間だが、『Coyote』で聴ける彼のベースは、あきらかに彼のベースであるにもかかわらず、紛う事なき「元春サウンド」のベースでもあるのだ。それは耳を疑ってしまうような経験だった。

 振り返ってみれば、ザ・ハートランド、ザ・ホーボーキング・バンドはもちろんだが、アルバム『ナポレオンフィッシュと泳ぐ日』(1989) の時のエルヴィス・コステロ & ジ・アトラクションズやブリンズレー・シュワルツのメンバーですら、きっとそうだったのだろう。屈指の名ミュージシャン揃いであるにもかかわらず、出来上がったものは、そのミュージシャンの個性に重きを置いたセッション・アルバムではなく、明らかに「佐野元春のアルバム」であったのだから。その時々に触発されていたであろう音楽からの影響や、時代を感じさせる音色などの装飾を取り払い、フラットな耳で聴くと、佐野元春が自身で編曲を手がけだした1982年以来、変わることのないオリジナルなサウンド・アレンジがそこに浮かび上がってくるのだ。その独創性は、日本で言うならば大瀧詠一の「ナイアガラ・サウンド」に匹敵する個性だと、ぼくは思う。

 兎にも角にも、『Coyote』が近年稀に見る傑作であることには、アルバムを聴いた人たちなら異論のないことだろう。じつは今回のセッションで、レコーディングしたにもかかわらず、収録されなかった曲がいくつかあることをぼくは知っている。そしてそのなかには、久しぶりにセンチメンタルな佐野元春がかいま見える、リリカルに構築された名曲もあったことを記しておきたい。
 
 『Coyote』ではっきりと示された、メロディー・メーカー佐野元春の復活。それは思っている以上に素晴らしい成果を、今後産んでいくに違いない。恐らく彼が、日本の音楽シーンに前例のない、全く新しい50代のロックン・ローラーとなることは間違いないだろう。そう、まるでニール・ヤングやポール・ウェラーのように。新作のインタビューで「ぼくはいま何度目かの思春期を迎えているんだ」と笑いながら語っていたが、恐ろしいことにそれは、まったく冗談でもなんでもないのだろう。

 佐野元春のようなミュージシャンが、メジャー・シーンでその存在を輝かせ続けることは、本当に奇跡に近い出来事なのかもしれない。だからこそ、ぼくら下の世代のミュージシャンも、彼に声をかけられれば、いつだって駆けつけるのだ。そしてそれは、他では得ることの出来ない、刺激的で楽しい体験をぼくらに与えてくれるのだ。