コヨーテとは私。
長谷川博一

 気分は晴れている。昨日より知識が増えた。ネコも元気だ。

 片方に規制緩和というアメを、片方に成果主義というムチを手渡されて毎日は進んでいく。面白ければ何でもいい。エンタ上等!の新たな拝金主義が幅を利かす世の中、でも反対にひどくシラフな時間が増えた。真面目に生きる。まともに生きる。この頃は何だかそんなことしか考えない。
 
 いのちの軽視。改憲論議。地球の寿命。それぞれがこの世の終わりの予感を謳うかのよう。どうやら為政者でもなく大衆でもない自分は何だかひどく無力だ。仕事仲間にはタヌキが多い。少しずつ銀行の残高と黒髪が減っていく。気分は晴れない。
 
 ぼくの日常といえば、たとえばこんな両極を行ったり来たり。絶望はしないが、そんなに明るい気分じゃない。佐野元春の新しいアルバムの主人公コヨーテは、根っからのミスター・アウトサイドでロックンロールのファン。ユーモアと人情があり、そして今この時代をとても生きにくく感じているようだ。持ち前の陽気さをもって何とか気丈に振る舞おうともしている。そういうコヨーテとは、つまりぼくのこと。あるいはこのテクストを読まれているあなたのことではないだろうか。まるで人ごとではない作品集として、佐野元春の新作に触れることになった。
 
 何だかんだで、もう四半世紀以上に渡って佐野元春を聞いていることになる。アルバムにはそれぞれの思想や方針が残されている。今では佐野元春の新作を聞いて、たった一つの感想だけが芽生えるなんてことはない。
 
 アルバム『Coyote』には未だ世の中には生まれていない新しいタイプの楽曲を書き上げたという作者の自負や興奮がある。大脳を文字通りに絞りに絞り、ひねりだした、平易でしかも衝撃的なことばがある。バンドは新しく若い。書き上げた楽曲を音にする時の生みの苦しみも予想する。しかし佐野元春の現在のボーカルに似合うサウンドスタイルが見つかりつつあるという嬉しい予感もその中にある。
 
 そのどれもがぼくには意味深く響くので、なかなか即答ができない。思わず深いため息をつくような重厚なアルバム。感想をたった一言、と問われたらそう答えるかもしれない。アルバムに使われた絵の具のすべての数をまだぼくは知らない。
 
 ことばの吟味。
 
 コヨーテはある時、孤独について考えている。孤独に“気高い”という形容を与えたり“拙い”という形容を与え、孤独でいることは(群れには戻らないことは)そんなに悪いことじゃないのだと仄めかしてもいる。メロディもサウンドも極めて陽気な「君が気高い孤独なら」という曲のテーマ自体は音楽への賛歌なのだが、同時に意味ある孤独への賛歌のようにも受け取れる。いわば現代の孤独についての応援歌のようにも感じることができるし、こんな歌は世の中にはない。だって多くの日本のシンガーと聞き手はラブソングの甘味に多くを求めて“我を忘れよう”としている。でも反対に佐野元春のこの歌は、孤独のただ中にいる自分を良く見つめて“我を取り戻す”ための歌だ。こちらの訴えの方が一味深く、しかも友人の助言のように厳しくて親密な感じがする。まさにビタースィートな響きがするものだ。
 
 音楽の成熟。
 
 たとえば「コヨーテ、海へ」の間奏部分、ホーンセクションのメロディ。遠くアパラチア民謡の時代から1970年代のロック、果ては現代のポストロックの時代まで受け継がれてきた“アメリカーナ”な感覚のメロディを、佐野元春もしたためているかのよう。実に美しく、どこか不思議なメロディ。しかしコード展開はなかなかに複雑で、本人の音楽的な教養を存分に忍ばせる。アルバム最高のメロディは、ここ。
 
 あるいは「Us」という曲。どこかサイケデリックな味付けと、まるでCSN&Yのようなハーモニー。聞こえてくるサウンドは充分にカラフルなのに、よく聞いてみるとコードのルート音(主音)はほとんど変わっていない。まるで1コードの曲と呼んでもいいようなシンプルさなのに、実にポップな彩色が施されているのに驚く。このあたりはポップクリエイターの技の見せ所。さすがだ。
 
 ジャケット写真の色調に代表されるように、この日の表の天気はそんなに晴れてはいない。写真で知る前作『THE SUN』との大きな違いはそこだろう。被写体の心情は詳しく知らないが、どうやら嵐の予感、暗黒の予感があたりを覆っている。その暗さは否応もなく今。しかし佐野元春もコヨーテも急いで席を立とうとはしない。直情のままに世間に舌打ちをしたりする代わりに、気休めの冗談を口にする代わりに、そのずっと前から保持している大志を暖めているかのように見える。
 
 反りの合わない社会に急いで参加する前に、大志を熟考させる。発酵させる。そうした態度を写真と音からぼくは一方的に感じ取っていて、だからこそコヨーテはぼくでありあなたである、という考えを更に強く持ってしまうものだ。
 
 時代を見据えながらも佐野元春は、あえて寓話集を作った。寓話には時間の制約がない。どの歌も個別の事象に当てたものではないのだろう。歌の寿命が新譜の賞味期限と共に過去のものとされる風潮も冗談じゃないのだろう。
 
 ロックレコードには5年経ち、10年経ち、ようやくその真価が認められるものがある。いわゆる“10年殺し”と称されるレコードのことで、作者にとってはきっと最高級の栄誉であるに違いない。音楽の隅々、詩作の隅々、かつてAB 面に分かれていたアナログ盤時代のアルバムを彷彿させる曲順にまで気が配られたアルバム『Coyote』。現在と未来の両方に有用な“10年殺し”級の作品なのだとぼくは感じている。