私の魂 "大事な魂″
dharmash

ベッドがいくつも並んだ薄暗い部屋で、私は魂と語らったことがある気がする。

いくつもの肉体に宿る精神の複合体が魂だとすれば、或いは、人の心の奥深くに潜む闇の深さが魂だとすれば、恐らく、其と語らうことは容易いことではないのだろう。

我々は日常の対話において、眼前の人間と語り合ってるつもりになるが、実際のところ、どれだけ相手の心を汲み取っているのか、怪しいものだ。それは、音楽を聴いたり、映画を観たり、ニュースを知ることだって一緒だ。およそメディアを介するコミュニケーション全般が、思い込みの連続だ。

そんな状況にあって、人は、どのような手段で世界と繋がればよいのだろう。

自分自身が其と密接に結びつくことは、決して楽なことではないはずだ。慌しく動き回る其とともに活動することは、激しく疲弊することかもしれない。深淵に立たされなければ観えぬ其を直視することは、非常識かもしれない。

けれども、世界と繋がるということは、元来、そういうことだと思う。

人々が、世の数多ある芸術作品に心うたれる背景には、常にその闇がある。

だからといって、我々が、その闇を抱え込まねばならぬ謂れは、恐らくない。我々は、いつだって「気がする」だけで充分であり、満たされるはずなのだ。それが心の触れ合いと気付けばよいのだ。魂との語らいと想えばよいのだ。

かつて世界は、それでまるく治まっていたはずなのに、なぜだか歪んでしまった。その証として、現代社会でまるく治まっている人が、一体どれだけいるだろう。円満な暮らしの中で何不自由なく生きている人が、一体どれだけいるだろう。

もしも、あなたが充分に満たされているならば、その人生こそが芸術だろう。わざわざ困窮してまで深淵を覗き込む必要など、まったくない。そこでは、夢など見る必要もないし、希望も必要ない。

あなたは、あなたの人生を往けばよい。それだけだ。

『Coyote』とは、本来、そういう作品だと思う。