JR大船駅の改札を抜け、会場までの道すがら、昨夜、武道館で体感したニール・ヤングの「ライク・ア・ハリケーン」のギター・フレーズが頭の中で渦巻いていた。鮮烈だった。歩を緩め、ふと見上げた空は高く、碧を拡げていた。
小春日和の日曜の午下がり、柔らかな陽光を纏い、そのどこか清楚な佇まいは在った。この場所で、佐野がパフォーマンスするのは01年9月以来のことだ。2年前、佐野は自身初となるスポークンワーズの単独ライヴ「In motion 2001 植民地の夜は更けて」を、ここ鎌倉芸術館・小ホールで行っていた。そして2回目となる今回のタイトルは「In motion 2003 増幅」だ。
前回は観ていなかったため、今回が初体験となった。会場に入るや、普段のロック・コンサートとは異質の空気が醸されていた。似た雰囲気に最近触れたな、そう思い巡らし、そして至った。この9月、初来日したオペラ『ヴォイツェク』だ。ロバート・ウィルソンとトム・ウェイツという鬼才ふたりが産みだした斬新な舞台だった。開演前、一種独特な空気感が会場内を包んでいた。その初日、1階の客席に佐野の姿も見受けた。
あの日の佐野のように静座し、開演を待つ。開演前のBGMの類はなく、さざ波のような静寂さに、いつしか頭内の嵐、ニール・ヤングのギター・フレーズは収まっていた。
3時を回ってほどなく、客電が落ち、4ビートのバンド演奏にいざなわれ、佐野が登場。「ポップチルドレン」で幕を開ける。モダンジャズ風の演奏に、詩を朗読するというより、詩を奏でる、そんな印象だ。アルバム『sweet16』に収録の原曲よりも言葉の輪郭が強まっている。ステージ奥のホリゾントには生々しい細胞運動が映写され、増殖、ひいては今回のコンサート・タイトル「増幅」をどこか連想させた。
2曲目は、フュージョン的な音楽アプローチがうかがえる「ああ、どうしてラブソングは」。曲名の響きとも異なり、その詩は国家を擬人化するなどポリティカルなものだった。
続く「廃墟の街」もアルバム『sweet16』からだが、原曲にも増して現代音楽風な意匠を凝らし、不穏な世界状況が詩的に語られる。たとえば、こんな具合に。“誰もが幸せに滅びてる”“すこしづつ命がかくれてく”。リーディングしつつ、佐野は右手で自身の左胸を叩いては、詩世界に自在に句読点をつけてゆく。さして表情を動かさず淡々とパフォーマンスする佐野を見ながら、今、どんなことをイメージして詩を奏でているのだろう? そんな想像がふと頭をよぎる。一昨年の年末にインタヴューした折、スポークンワーズについて訊ねると佐野は云った。
「抽象的ではあるけどハッキリしたイメージが僕の中にはありますから、常に映画のように映像を伴なったものを思い描きながらリーディングしています」
佐野の思考映像を知る術はなかったものの、彼が奏でる「詩」は、楽器演奏、照明と三位一体を成し、600人近い受け手それぞれの頭のスクリーンに、個別の思考映像を結んでいるに違いなかった。佐野のスポークンワーズは、どこか名画を思わせる。絵画を観覧した際に、その素晴らしさを実感しても言葉に表すことが難しかったりすることがままあるが、それと同質のものを覚える。優れた芸術作品は、人を内省へと向かわせ、そのうえで解放へと導いてくれるものだ。
5曲目、佐野はステージ下手寄りに置かれた椅子に。客席に背を向ける椅子に跨ぐ形で座り、リーディングしはじめた。“アルケディアの丘で洗濯の準備をする一角獣が、ミシンの縫い目を気にしながら咳ばらいすると、血色のいい郵便配達人が「ああ、この家ももうまもなく売りにだされるのだな」〜”。詩文自体は、10年前、下村誠率いるバンド「スナフキン」の宣伝用チラシに寄稿したものが基になっていた。オーラル表現は、今回が初めてだった。寓話性が色濃かったものの、「アルケディアの丘で」というタイトルに、ある史実が想起された。アルケディアの丘はカナダ東部に位置し、18世紀半ば、植民地拡大を計る英国軍によって、居留していたアカイディアン6000人以上がこの地を追われた。その悲劇に材を得て、土地を失った一家の流浪を歌ったザ・バンドの佳曲「アルケディアの流木」(邦題表記は「アケイディアの流木」)もあった。佐野の詩文にも、住処を失くした者の悲壮が多分に滲んでいた。
物語が終わるや、ドラム・ソロを挟み、「ベルネーズソース」に突入。ドラムとベースの小編成で、ペシミスティックでいてリリカルな詩が奏でられていった。続いて、フルバンドで「こんな夜には」が演られる。この曲は、2年前、奇しくも9.11のテロ事件10日後に催された第1回目のスポークンワーズ・ライヴで初演された。10分を超える大作だ。フリージャズ風の即興演奏のなか、ドラムスの山木秀夫、ベースの美久月千晴、ヴァイオリンの金子飛鳥、そしてキーボード兼サウンドマスターの井上鑑が、詩を触媒に、対話を愉しんでいるかのように見える。とはいえ、佐野の詩は偶詠ではない。洪水のように溢れだした言葉も、自覚的かつ理知的だ。
次いで、佐野がアコースティック・ギターを爪弾き、まるできょうの穏やかな陽気を写し取ったような演奏に乗せて、「日曜日は無情の日」がリーディングされる。佐野一流のユーモア・センスが光る逸品だ。
そして青の照明に染まった井上鑑が弾くピアノ・ソロに続き、「何もするな」「世界劇場へ行こう」「何がおれたちを狂わせるのか?」が初披露された。詩文自体は、「エーテルのための序章」の収録作品に加筆修正したものだ。曲が終わる毎に、黄色い歓声ではなく品のいい拍手がステージに返された。4時半、全10作品のパフォーマンスを終了。メンバー紹介以外、MCは一切なかった。
総じて言葉の持つエナジーとは裏腹に、そのオーラル表現はクールにコントロールされていた。そしてリーディングされた詩に底流するのは、コントロールがきかなくなりつつある世界の狂気だろう。佐野がスポークンワーズで軸に据えているのは、ポップ・ミュージックでテーマにしてきた都市とか都市性ではなく、世界とか世界性といったものに違いない。あくまでも個を取り巻く世界という意味でだが。ある種、佐野はスポークンワーズをポリティカルな表現の場と位置づけているのではないだろうか。スポークンワーズの文脈を掘り進めようとする佐野の、表現者としての鉱脈は尽きない。
この日、空気を震わせ、鼓膜を震わせた言葉の波動は、聴き手の生活のなかでそれぞれに「増幅」されていくことだろう。筆者の想像力を最も増幅させたのは「アルケディアの丘で」だった。会場をあとにする頃には、入場前、頭で渦巻いていたニール・ヤングの「ライク・ア・ハリケーン」のギターもどこかに霧散し、代わって「一角獣」の姿が思考の中心で膨らみはじめていた。