対談:2005年都内 某所


■MWS設立前夜

今井 まず最初は、MWSの立ち上げとMIPS発足まで遡ってみましょう。サイトの立ち上げはどういうきっかけだったんだっけ?
森本 NIFTYの「元春ホームパーティ」での集まりがきっかけだった。1994年当時は、パソコン通信といえばNIFTYかPC-VANだったからね。その「元春ホームパーティ」の中でMac分科会みたいなものがあって、インターネットが話題になっていた。海外のアーティストサイトはちらほら出来上がっていて、佐野元春のホームページがあったら面白いよね、ということで盛り上がってた。
米田 一部の企業や大学、研究所だと、その頃はすでにインターネットに接続されていて、会社から大学や研究所のコンピュータにパっとアクセスできる状態にはありました。
道向 Webは93年ころからありましたよね。その頃はWeb、メール、FTP、NetNewsがインターネットの基本だった。
今野 あとGopherかな。
今井: その一方で、ちょうど同じ頃からインターネットプロバイダーが国内でもでてきて、個人でも機材さえあればインターネットに繋がるぞ、とテクノロジーに敏感な層では話題になり始めましたよね。
道向 学校とか企業ユーザの間ではMosaicが使われ始めてて、Rolling StonesのWebページとかはもうあったんじゃないかな。
今井: そこがスタート地点。元春ホームパーティの中でみんなで盛り上がっていて、それの分室としてインターネットでも何かやってみよう、という感じだったかな。
米田 あと、佐野さん自身もマルチメディア的な実験をやり始めていて、DovannaとかSweet 16のフロッピーとか。
今井 そうそう。初代MWSのトップビジュアルを作ったとき、Sweet16のフロッピーから画像を引っ張りました。今考えるととてもイリーガル(笑)。
道向 いや、当時も著作権の問題は懸念していて、勝手にやるとマズいだろうという意識はあったのよ。
米田 みんなファンだから、何らかの素材はもっていたんですよ。勝手にやると所詮ファンページというアングラなところに落ちちゃうんで、それは嫌だと。
今井 元春ホームパーティというのはテキスト文化だったけど、Webだとグラフィックが張れるということで、表現の幅が格段に広がるんですよね。
森本 そうなると当然肖像権って話は出てくるわけで、やっぱり無断で使っちゃいけないだろ、という話になった。
道向 制作途中では、元春ホームパーティの中で、例えばこんな感じのWebページ? というプロトタイプは見せっこしていた。インターネット上で作業が進んだけれども、それがホームパーティというクローズドな場だからできたんですよね。
遠藤 最初から個人が作るんじゃなくて、みんなでパブリックに作っていくという意識があったわけだ。
滝口 役割分担はあったよね。
道向 そうやってみんなで作っているときに、米田さんから「もしかしたら(佐野さんから)許可が取れるかも」っていう話が出てきたんですよね。
米田 別に戦略とかがあったわけじゃないけど、まあいけるんじゃないの? っていう気持ちはありました。
滝口 そうなの? 妙に自信たっぷりだった感じがしたけど(笑)。
米田 SME(Sony Music Entertainment)にコネクションがあったし、ソニー内部でこれからネットで何か始めようという動きをしている人たちともコネクションがあった。それで、そういう人たちと話はできるかなと。あと佐野さんに直接メールを出したら、すぐに前向きな返事が返ってきたんですよ。それでファン側と佐野さん側の両面からSMEを説得に行くことになりました。
今井 そのときから、その図式が出来上がっていたと(笑)。佐野さんにコンタクトした時点で、佐野さんはWWWのことを理解していたんですか?
米田 全部理解していた。海外サイトもよく調べられていたし、自分のなかにも構想はあったんじゃないかな。
今井 でも佐野さん自身がWebサイトを作る手段はなかったわけですよね。つまり、佐野さんの中でもインターネットに対してビジョンができ始めていて、最良のタイミングでファン側がソリューションを提示できた。そこで婚約成立と。それが94年の11月ですね。
米田 12月には関係者と会ってますね。SMEを説得する感じで。当時はサーバなんて個人じゃもてないんで、ソニーでサーバ管理している人たちも呼んで。
今井 そこで質問。本人を巻き込んで、事務所を巻き込んで、レーベル巻き込んでとなると、普通に考えるとオフィシャルサイトですよね。なぜファンサイトという立場が維持できたんでしょう?
米田 海外の、個人がやっているアーティストサイトのパワーというのを、佐野さんも十分に感じていたんじゃないかな。
遠藤 この本を見ていると、当時の海外でもオフィシャルサイトっていうのは存在しないね。
道向 ファンが「こういうサイトを作って、インターネットで佐野さんを紹介しましょう」という形でもっていったはず。それなんで、ファンサイトにしかなりえない。
今井 こういったサイトを作りたい、という骨子は元春ホームパーティ上でみんなで練り上げていったんですよね。で、そのときって「こんなものあったらいいな、できたらいいな」という純朴な欲望の集合じゃないですか。さらにその多くは、人海戦術じゃないとできない企画だったよね。全曲歌詞のテキスト化だったり、過去に遡ってのライブレポートだったり。だから、MIPSということで集まったのは、地理的な条件もあったりして、7〜8人だったかもしれないけど、もっと多くのみんなが同じ意識をもっていた。
そこはすごく重要。
米田 そう。たとえばライブレポートのテキストを書くことならできますとか、昔のアナログジャケットを持っているから、誰かスキャンして! とか。
今井 打てば響くコミュニティだったよね。誰かが「歌詞一覧があるといいな」って言うと、次の日にはみんなからウワーってテキストが集まってくる。
遠藤 たとえば今で言うところの音楽配信って、佐野さんの活動を考えれば当然のアクションじゃないですか。まあ、当時はそんなことできる技術もないわけだけど。でもチャンスさえあればやりたいなあ、という意識はあったんじゃないかな。
米田 最初からQuickTimeはやっているんだよね。それについてSMEと相当やりあいました。
今井 これは後付け理論かもしれないけど、オフィシャルサイトって銘打って始めたとしたら、あのコンテンツは集まらなかったと思う。プロジェクトにお金を付けて、制作を発注してっていうスタイルだと、あれはできないですよ。今だって「新人アーティストのオフィシャルサイトがオープンしました」ていうんで、アクセスしてみたらプロフィールのみってことも普通にあるじゃないですか。MWSはそんなことはあり得なかった。ファンの欲望をすべて形にするぞ、と。
遠藤 まだインターネット上でアーティストサイトを運営することにおける法的な整備も進んでいない状況のなかで、ファンサイトとしたほうがコンテンツも豊富になるし、サイトとして圧倒的に面白くなるという予想が佐野さん中にもあったんだろうね。
今井 …で、1995年3月13日に向けて、作業がどんどん進んでいくんですが、実際に作っていた期間って2ヶ月くらい?
森本 ほんと人海戦術だったよね。全歌詞のテキスト化なんて、みんなでやれば1日で終わっちゃうし。
米田 どこどこの歌詞がありません、とか、そういうやり取りがいっぱい。
今井 そこのマネジメントは米田さん?
米田 そう。あと辻本さんが企画の段階では中心的に動いてくれて。その後で事情があったみたいで参加されなくなったけど。そのときに辻本さんが企画書を作って、SMEにプレゼンしているんですよ。その企画書自体は事前に佐野さんには確認してもらっていました。で、佐野さんの「Go」という一言でみんなOK。
遠藤 実際にサイトを手掛けたみんなが対面したのはいつごろ?
滝口 佐野さんとのミーティング報告会で、94年12月とかかな。何人かの人はそのとき初めて会ったという。
米田 私がみんなと会ったのは、MWSが立ち上がった後でしたよ。今井さんと会ったのも、MWSが立ち上がった直後に元春ホームパーティのOFF会があって…
今井 初めて会って開口一番、「はじめまして」じゃなく「お疲れさまでした!」って(笑)。
遠藤 そのサイトは佐野さんには見てもらったの?
米田 佐野さんには見てもらいましたね。そのときにとくに注文とかもなく。



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