論文・ソングライティングについて
TEXT : 佐野元春

掲載時:1995年9月
掲載場所:THIS FALL 1995 Vol.1 NO.4「ハートランドからの手紙 #90」

 'FAQ'- Freqently Asked Questions(フレクエントリー・アスクド・クエスチョンズ)。コンピュータ・ネットワークを利用しているとしばしば目にする言葉だ。直訳すれば、「頻繁に問われる質問事項」となる。日常で討論が行なわれるときのことを想像してみて欲しい。ある発言者の発言に対し複数の質問が相次ぐことがある。討論に参加する人々がそこに全員同席している場合は、ある人が代表発言者となって質問事項を一括することができる。しかしネットワーク社会においては、おのおのが自宅または会社のコンピュータを使って、離れた場所から発言することになる。だから、ネットワーク上では、ひとりの発言に対して、それを読んだ個々の人々から、同じような内容の質問が殺到することがある。その数はおびただしいものとなり、とうてい個々に返答することは不可能となる。発言者はそうした事態を未然に防ぐため、予想される初歩的な質問事項については、あらかじめQ&A形式で返答を箇条化しておくのだ。そうすることによって、発言者は、同じような質問にいちいち答える必要もなくなり、コンピュータに向かって一日中メールを打ち続けるという無駄な苦痛から解放される、というわけだ。

 ポップ・ソングとは、言ってみれば、世間からのこの'FAQ'(頻繁に問われる質問事項)に対する、少しだけ気の利いた回答なのだと思う。世界には数えきれないほどのソングライターがいる。一週間に何曲もの「ポップ・ソング」が生まれている。唄の題材の取り方はそのソングライターによって、さまざまだ。しかし共通して言えるのは、多くのソングライターたちが、日常のささやかな関心事から、宇宙規模の哲学的な関心事まで、この時代に暮らす人々のあらゆる関心事に沿って、言葉と音楽を紡いでいる、ということだ。「ひとはなぜひとを愛するのか?」これは未来永劫絶えることのない'FAQ'。「世界はなぜ不公平なのか?」これは、時代の混乱期によく見られる'FAQ'。「恋って何?」これはティーンネイジャーからの'FAQ'。最近では、「神様って本当にいるの?」(ゴスペルを聞けばいいのに)とか、「SEX!!!」、「地球が破滅するって聞いたけれど?」といった類の'FAQ'も増えている。ソングライターたちは常にこれらの'FAQ'に、きっちりと気の利いた回答を与えなければいけない。しかも時代や状況によって、言い回しに工夫を凝らさなければいけないし、時には自分がピエロになることもためらってはいけない。しかし何と言ってもソングライターたちを悩ませるのは、「僕(私)って何?」という'FAQ'だろう。この深遠な'FAQ'にまともに答えようとするソングライターも少なくはないが(自分のことか?)、たいていは失敗する。

 国内のソングライターたちの悩みは、何と言っても「言葉」だろう。構造的に日本語はリズムに乗りにくいという。情報量を多くすると言葉が小節からはみだしてしまい、音楽的に機能しなくなる。情報量をたっぷりと保ちながら言葉を厳選していくと、まるで俳句のように、隙間だらけの抽象性だけが顕在化してしまう。それはとりもなおさず、西欧のポップ・ソングをフォーマットに曲を書いていることに起因しているのだが、今更我々は古来伝統の長唄や小唄をフォーマットにして言葉を紡ぎたいと思うだろうか?(やってみても愉快だろうが)。先日、僕の伯母の長唄の発表会を見に、国立劇場へ行った。実際僕は長唄をライブで見るのは始めてだった。伯母のパフォーマンスはすばらしかった。題目は忘れたが、有名な唄らしい。完成された形式が美しさをともなって聴くものを圧倒する。あるいは安心させる。僕は注意深く、そこで語られている唄の内容を聞き取ろうとしてみた。せつないラブ・ソングだった。僕はうっとりとしてしまった。ゆっくりと、それはゆっくりと、噛んで含めるように唄われた。しかし、30分ばかり経つと、残念なことに僕は落ち着きがなくなってしまった。なぜなら、曲のテンポがあまりにもスローだからだ。しかも、言葉の一行を唄うのに、おそろしく時間がかかる。それが「形式」なのだからしかたがないのだが、彼女達が一行唄い終わる間に、もし僕だったら2曲目を唄い終わっているだろう。とうてい現代の都市生活の速度にはマッチしないテンポ感だ。

 国内のソングライターたちの「言葉」に関する悩みは尽きない。しかし、95年現在、我々は、ユニークな、しかし聴きごたえのある、日本語によるラップ音楽を聴くことができる。インディーズはこれからもまた、既成を越えて、冒険的な作品を生むだろう。日本語によるロック表現は、異化と同化を繰り返しながら、確実にその裾野を広げている。西欧のポップ・ソングをフォーマットに曲を書く。これは今に始まったことではない。歴史の詳細は専門家に任せるが、ロックやフォークの分野で、僕がそのことを初めて意識したのは、70年代の始め、「はっぴいえんど」のレコードを聴いた時だ。彼らは日本語によるロック音楽のパイオニアだった。彼らの発明に刺激されたソングライターは少なくない。僕もそのうちの一人だった。彼らは日本語の持つ構造を一旦分解し、独特の知性で文節を繰り、半ば強引に言葉をあてはめた。全く新しい手法だった。そこで唄われていた内容は、おおざっぱに言えば、「都市に暮らす、伏し目がちな兄貴たちの虚無的な心象風景」といったものだった。僕は短い期間、彼らの音楽に夢中になったが、長続きはしなかった。なぜなら、僕自身が曲を書き始めたからだ。その際、意識的にせよ、無意識的にせよ、作詞の参考としたのは、やはり彼らの音楽だった。そこに批評眼が芽生えた。世代で言えば、ひとつ下であった当時の自分は、「はっぴいえんど」とはまた違った手法で、街をスケッチしたいと思った。下の世代が上の世代に挑戦し、勝ち取ってゆくのだという図式が、そこにあったかもしれない。「はっぴいえんど」は自分にとって、教師でもあり、また反面教師でもあった。

 僕は言葉と音楽に真剣に向かい合っている同時代の、すべての、同業のソングライターたちを擁護する。「擁護」という言葉は傲慢か?であるなら、「同情」と言い換えてもいい。かつての時代、ポップ音楽には夢があった、という。そのポップ音楽からファンタジーが消えて久しいと言われる。しかしポップ音楽におけるファンタジーとは歴史が示してきているとおり、ソングライターが創りだすものではなく、リスナーが感じ取るものなのだ。多分。時代の新しいリスナーが新しい音楽を求め続けるかぎり、そこに新しいファンタジーが生まれてくるはずだ。

 またある人は、ポップ音楽にかつてのパワーがなくなった、という。それは正しい。60年代の人々が経験したようなビートルズやウッドストックの現象は、もうこの先起こらないかもしれない。しかしそれは、ポップ音楽自体の魅力が失せたわけではなく、ポップ音楽の変容(Transformation)なのだ。ポップ音楽は、レコーディング技術の変化、流通の変化に沿って、どうにかサバイバルしようと、日々、その形態を進化させている。サナギはサナギのままではいられない。我々はその変容の現場に立ち会っている。変容の現場を目撃し、愉快につきあっていこうとしている。

 僕は言葉と音楽に真剣に向かい合っている同時代の、すべての、同業のソングライターたちを擁護する。既成を押しつけるレコード会社や保守に凝り固まった恐竜たちに悪態をつきながら、どうにか意味のある一曲を生みだそうとしている、同時代の、すべての、同業のソングライターたちを擁護する。この変容を見つめ、この変容につきあいながら、今もどこかせまい部屋の中で言葉/音楽と愉快な格闘をしているソングライターがいるかもしれない。ハっと息を飲むような曲を作り上げ、明日になれば、何百万枚もの売り上げを記録するような、そんなことを夢に見ているソングライターもいるかもしれない。僕もまた、そんなソングライターのひとりとして、日がな、唄のメロディーやそこで唄うべきストーリーについて考えている。そして願わくば、ごきげんなポップ・ソングを紡ぎたいと思っている。ごきげんなポップ・ソングとは何か。それは多くの人達から愛される唄のことだ。しかしたいていの場合、それを意識して成功した試しはない。ソングライターたちの'FAQ'はいつもきまってこうだ。「ソング・ライティングをうまくする方法があるだろうか?」、「ソング・ライティングに何かルールのようなものはあるのだろうか?」。曲作りのルールなどどこにもありはしないから、結局のところ自分でやるしかない。もしあるとしたら、それは、「聴き手にはおもしろがってもらえ。同業者からは盗まれるように作れ。」ということだ。

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