アルバムを通して漂う“放浪感”
池田聡子

 アルバム『カフェボヘミア』が発表されたのは80年代も半ばを過ぎた頃だ。このアルバムは一年に及ぶニューヨーク生活からの帰国後に発表され、のちに『VISITORS』『ナポレオンフィッシュと泳ぐ日』とともに三部作とも言える作品群の一角を成す重要な作品だ。前作での“ヴィジターズ=訪問者”、というキーワードを発展させる形で、カフェに集う自由な若者を描いたこの作品は、ヴィジターズ=ボヘミアン(放浪者)に自らの姿を投影させたようにも受け取ることができる。

 さらに次回作『ナポレオンフィッシュと泳ぐ日』におけるタイトルの意味するところは、醜いけれども滅多に出会うことのできない魚=ナポレオンフィッシュと、出会ったときに幸福がもたらされるというダイヴァーの間で囁かれる伝説に導かれたものであり、そこには二面性を強調する佐野元春自身の存在を垣間見ることができる。他のアルバム以上に、自身の思想を強調したこの三作は、文化的、音楽的に不毛とされる80年代にあっては異彩を放つ存在であることは明白で、日本に生まれ育ちながらも、世界の音楽的傾向に常に耳をそばだてながら、それを自身のものとして昇華させたサウンドは、やはり佐野元春という特殊なクリエイティヴィティを持ったアーティストならではの成せる業だろう。

 その中でも本作『カフェボヘミア』は楽曲的にも充実したものがあり、3作連続でシングル・リリースされた「ストレンジ・デイズ」「ワイルド・ハーツ」「シーズン・イン・ザ・サン」をはじめ、「ヤングブラッズ」「99ブルース」「インディビジュアリスト」といったその後歌い継がれる名曲が目白押しだ。一方でこのアルバムが一部である種の物議を醸したことも忘れてはならない。それはここに収録された「月と専制君主」や「インディビジュアリスト」が全体主義的なイメージを喚起させるからに相違ない。このイメージは『ヴィジターズ』における「ニューエイジ」から引き継がれたもので、当時ベルリンの壁崩壊以前のヨーロッパに垂れ込めていたネオ・ファシズムの暗雲を彼なりに解釈したものと思われる。

 ただしこうした気配に対して敏感なメッセージを放つアーティストは他にいなかったため、佐野元春のメッセージが際立ってしまった結果だと言ってもいいだろう。彼自身は誤解されることよりも、一人のアーティストが発するメッセージが取り上げられることで、主義主張が当時の若者に伝わっていくものと考えていたが、意外にその反応は低く、逆に危険な思想をもった人物としてとらえられたことを残念に思ったのでないだろうか。誰も言わないから自分が言う、ただそれだけのことが、80年代にはまだまだ普通のことではなかったのだ。

 その後80年代の末に発表した「警告通り、計画通り」を発表するに至って、完全なメッセージ・シンガーのレッテルを張られることになってしまう佐野元春だが、本作『カフェボヘミア』は、メロディ・メイカーとしての非凡な才能をもったポップ・スターであることを見せつける一方で、そうした問題意識を持ったシンガーの存在を知らしめるという相反する行為を成功させた作品だ。そういう意味で『カフェボヘミア』は彼の作品の中だけにとどまらず、日本の音楽シーンにおいても間違いなく重要な位置を占める作品であると言っても間違いではないだろう。

 確かに佐野元春にとって、また彼のファンにとって初期の作品は強烈なインパクトを残し、心の奥深くに数々の思い出を刻んでいる。けれどもこの作品に収められた楽曲は、それとはまた違った想いを孕んでいる。ロックンロールに知性を与え、ロックンロールの本質を提示するような内容は、佐野元春自身が常にボヘミアンであることを語ると同時に、ロックンロールとは“そういうものである”と教えてくれているようでもある。そしてアルバムを通して漂う“放浪感”が、ザ・バンドやニール・ヤング、そしてアメリカ音楽に憧れ、そのルーツを辿るように作品を発表し続けるエルヴィス・コステロの姿と重なるのは私だけだろうか。最後に、アルバム『カフェボヘミア』は、私の一番好きな佐野元春作品である。