それでも、ドライヴし続けよう
増渕俊之
佐野元春の作品の中でも『カフェ・ボヘミア』は格別よく聴いたアルバムだ。80年代なかば、二十歳を過ぎたばかりのころ。もしかしたら、一生分聴きまくったといっても大袈裟じゃない。生まれてはじめて所有したオンボロの中古車を走らせながら、実に聴きまくった。CDでもレコードでもなく、カセットテープ。当時、まともなコンポを持っていなかったぼくにとって、車の中は最良のリスニングルームだったのだ。
そうした聴き方を重ねてきたせいもあるが、この『カフェ・ボヘミア』には“ドライヴしている”というイメージが強い。それは、いわゆる“ドライヴ・ミュージック”と呼ばれるような軽々しい意味ではなくて、音が奔る感覚 ── としての言い回しである。実際のところ、収録曲の多くは聴き手の心を鼓舞するタイプの楽曲ばかりで、アクセルを踏み込むアクションとも非常にマッチするものだった。
年齢的には「ワイルド・ハーツ−冒険者たち」の語り部に我が身を投影するには早すぎた若造だ。カフェといっても“カフェバー”全盛の薄っぺらな時代をゆらゆら漂い、ボヘミアンといっても葛城ユキの“♪ボヘミア〜ン”が耳に残る世代である。佐野元春が想い描いていたコンセプト(遅れてきたボヘミアンがたどり着いたカフェ)についても、その真意を100%正確に理解しているとは言えなかった。
むしろ、オフカラーのステンカラーコートやグレンチェックのジャケット、黒のタートルネックにスリムパンツ……といったように、ファッションの側面から『カフェ・ボヘミア』の世界像に憧れていたきらいもある。まあ、何事もスタイルから入るのは若者にとっての特権だ。それについては否定するどころか奨励しておこう。
けれど、その当時のぼくは難しい年ごろで、群れ合いを避けて一人で街を流すことを好んだ(それはいまでも変わらないのだが)。だからこそ「ヤングブラッズ」や「インディビジュアリスト」の青々しい衝動性、あるいは「月と専制君主」や「99ブルース」のシニカルな視点がジャストフィットしたのだと思う。なにより、車の中という閉塞空間が音を親密に響かせた。外の世界に向けた無軌道な発散ではなくて、内面へとダイヴしていく拡張 ── 。それこそが“個”の意識を強めるギアだった。
改めて手元に届いた20周年記念盤を聴くと、あのころは若すぎて気がつかなかったことが身に迫ってくる。シリアスかつナイーブな歌詞は、不本意に馬齢を重ねたいまのぼくに突き刺さるようだ。発表当時、前述したように「一生分聴きまくった」というのは大いなる誤解。酸いも甘いも噛み分けて“偽りに沈むこの世界”を生きなければならない日常のなかでこそ、聴き続けるに値するアルバムなのだと実感する。
あのころの佐野元春も十分に若く、たしかに“ドライヴ”していた。ハードに、そして脇目もふらず。たとえば、活動母体となるレーベル「M's Factory」の設立。責任編集雑誌『THIS』の刊行。ライブ「東京マンスリー」……そうした制作背景については、本作のブックレットやDVDによって様々な検証がおこなわれているので詳細は譲るが、総じて言えるのは“ジャーナルな音楽作り”を実践した過程がここにある。
ある意味『カフェ・ボヘミア』は、そうしたアクションが導きだした理想主義の産物ともいえよう。一方で、ペシミスティックな諦念をも内包するアンビバレンスな作品世界を打ち出した佐野元春は、この“20年目の現在”を見据えていたのだろうか? 今回、再レコーディングされた「虹を追いかけて」を聴くにつれ、その不朽性にはあきらかに確信のタイマーが埋め込められていたと思わざるを得ない。
なおかつ、現実社会の煩わしさ(かつて佐野元春は、それを「生活という/うすのろ」と喝破していた)を背負いながら、それでも「ドライヴし続けよう」と後押しする高潔な勇気を『カフェ・ボヘミア』はいまなお与えてくれているのである。
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