個人主義者たちの集うカフェ
西上典之

 乱暴な物言いになるが、佐野元春の音楽がリスナーに最もハッピーに響いていたのは最初の3枚のアルバムまでだったと思う。そこには佐野の、アーティストとしてかけがえのない初期衝動があり、だれしも若い一時期にしか手にすることのできない特権的な尖鋭さがあった。そしてそれは僕たちの成長のステージとぴったり重なり合っていた。僕たちは「ガラスのジェネレーション」に、「ダウンタウン・ボーイ」に、「スターダスト・キッズ」に自分の姿が描かれているのを見た。

 だが、もちろんそのような幸福な時期が永遠に続く訳はない。人はだれでも日々自分を更新しながら、少しずついろんなことを知って行くし、その結果、少しずついろんな責任を背負いこんで行く。時の流れは冷酷に僕たちから無邪気さを奪い、その代わりに僕たちは分別を身につける。そして自分がかつて言い放った大人たちへのレジスタンスが、今や自分自身に突きつけられていることを知るのだ。

 そんな中で佐野の音楽も変わって行くことを強いられる。佐野はニューヨークに渡り『VISITORS』を製作した。それまでファンに受け入れられていた音楽を手荒くぶち壊して見せた。僕は思う。佐野の音楽がリスナーに最もハッピーに響いていたのは最初の3枚のアルバムまでだった。しかし、僕たちが本当に聴くべきものは、むしろ佐野がそうした幸福な時期を過ぎ、その後長い間どのようにして自分の、そしてリスナーの成長と渡り合って行くのかというテーマに悪戦苦闘した、その中にこそあるのではないかと。

 そのように考えるとき、『Cafe Bohemia』は佐野のキャリアの中でも重要な作品だ。ニューヨークという異質な環境の中で、それまでの作品とは明らかに隔絶した『VISITORS』というアルバムを製作し、それをひっさげて帰国した佐野。ナーバス・ブレイクダウンに陥りながらも長いツアーの中でファンとの約束を再確認し、何とかその「変化」を東京というホームタウンに着地させた佐野が、次のステップとして始めた新しい闘争、それが『Cafe Bohemia』であった。

 ここで佐野が標榜したのは「個人主義」だった。「本当の真実」や「自由」を無邪気に追い求め、大人たちに対してインセントな闘いを挑んだ初期のアティチュードはここでは影をひそめ、歌の主人公は土曜日の午後に仕事でクルマを走らせている。「今、君の目の前で/何かが変わりはじめている」のにそれが「悲しいけれど/僕にはわからない」のだと佐野は歌う。佐野は明らかに自信を失い、戸惑っている。あれほどクリアに見えていたはずの世界が、にわかに複雑に、厄介なものに感じられてくる。単純に指さして非難できるものなどどこにもないのだと気づく。

 佐野はそれを、「個」の問題として引き受けようとした。自由であるということはつまりすべてを自分で考え、自分で決め、そこから生じる結果がどんなものであれ自分でそれを背負うということだ。架空のカフェに集う自由な魂たち。そこにあるのはしかし、自己決定への厳しい眼差しだ。クールな個に立ち返ることで、僕たちは安定した視点を手にすることができる。しかしその一方で僕たちは大きな孤独を背負うことにもなる。このアルバムはその困難な自由 ─ 自己決定と自己責任 ─ を引き受けて行く覚悟についてのマニフェストに他ならない。

 「月と専制君主」も「インディビジュアリスト」も「99ブルース」もそうした文脈でこそ理解できるだろう。「鋼鉄のようなWISDOM」が何を意味するのか、僕たちはミスター・サンタクロースに何を「あきらめない」と約束するのか。重い問いかけを自分自身の問題として沈潜させること。本質的な孤独 ─ だれとも分かり合えないこと ─ を所与として受け入れながら、それでも、いや、だからこそ幾ばくかの理解や共感を求めてだれかと活発な議論を交わすこと。「カフェ・ボヘミア」とはそのような自由で、孤独な魂の集う場なのだ。

 もちろんそれは苦い現実認識だ。この後果てしなく続いて行くことになる佐野元春の試行錯誤の最初の一歩だと(そしてその中でも比較的うまく行ったもののひとつだと)言っていい。だけど、最初にも書いたとおり、僕たちが本当に聴くべきものは、佐野がどのようにして自分の、そしてリスナーの成長と渡り合って行くのかというテーマに悪戦苦闘した、そのあがきの中にこそあるのだし、その出発点として、このアルバムの持つ意味は現在でももちろん失われていない。いや、むしろ、今こそ、このアルバムで佐野が提示した個人主義というものの本質を僕たちがいったいどれだけ理解できたのか、もう一度問い直してみるべきだと僕は思うのだ。