特集=佐野元春『自由の岸辺』が照らし出す現在

経験を積み重ねていくからこそ生まれる芳醇な音楽

今井智子

 カヴァー・ソングが好きである。なぜなら有名なキャラメルのキャッチコピー「一粒で2度おいしい」に倣えば「1曲で2倍たのしい」。オリジナル曲の魅力を新たに引き出し、カヴァーしたアーティストの実力が存分に発揮される。オリジナルへの敬愛と、時にはちょっとした遊び心も加えて、2倍の楽しみを与えてくれる。それでこそカヴァーだ。歴史に残る名カヴァーは数限りないが、セルフ・カヴァーも同様なのではなかろうか。より良い演奏やサウンドで、というに留まらず、自分自身を客観視して変化を加えていく。それは過去の否定でも上書きでもなく、新たな表現をクリエイトすることだろう。そうすることで楽曲が新たな息吹を得ていく。

 佐野元春&THE HOBO KING BAND『自由の岸辺』は、まさにそんなセルフ・カヴァーの醍醐味を味わえる作品だ。THE HOBO KING BANDが始動して約22年になるが、その間に佐野とメンバーそれぞれが育んできた熟味をたっぷり含んだ素晴らしい演奏で満たされている。若々しいロックンロールの象徴と言っていい「夜のスウィンガー」が、おおらかなニューオリンズ風の演奏に変わって「夜に揺れて」と歌われるとは、誰が想像しただろう。ここに収録されたどの曲も、イメージを一新するような佐野のヴォーカルに引き込まれずにいられない。

 その起点が2012年から始まったTHE HOBO KING BANDとのビルボードライヴ東京・大阪での公演なのは言うまでもない。本作初回限定盤には2017年のビルボード東京ライヴ映像が入っているのだから。私がこれまでに何度か拝見したビルボードライヴ東京でのメモを見直すと、2015年には「夜のスウィンガー」がほぼ今回のヴァージョンになっていたようだし、2017年11月の公演では本作収録曲の半分近くがここで聴くアレンジで演奏されていた。ブックレットのデータを見ると2016年からレコーディングは始まっている。

 THE COYOTE BANDとのライヴでも初期の曲をアレンジを変えて演奏することがあるが、それとはちょっとニュアンスが違う。長い時間を経て曲を咀嚼し表現を磨きリフレッシュしてきたことをうかがわせる豊かな歌とおち着いた演奏で聴かせる11曲からは、熟成したワインのように複雑で滋味たっぷりの香りが立ち上ってくる。覆面ユニットのブルーベルズの曲や小坂忠への提供曲なども入れて佐野の幅広い歴史を感じさせると同時に、今これらの曲を選んだジャーナリスティックな意味も感じ取れるのだが、どの曲も時間をかけて練り上げられてきたのは確かで、このアレンジにはTHE HOBO KING BANDが必要だった。

 ロックにも造詣深くニューオリンズ・スタイルのキーボードを演らせたら日本一のDr.kyOn(Kb)、荒々しいブルースも洗練されたソウル・ミュージックも得意な井上富雄(B)、抑制の効いたリフからダイナミックなソロまでござれの長田進(G)、子供の頃からロック・ドラマーの古田たかし(D)、そしてビルボード・ライヴ公演では欠かせない存在となった笠原あやの(Cello)。デビュー当時に演奏していたライヴハウスとは趣の違う、大人がゆっくりと食事も楽しめる300席ほどのスペースで、どのように自分の音楽を伝えていくか、この5人と共に佐野は切磋琢磨し自身の音楽を深めてきた。そうして出来上がったのはステージの息遣いが伝わるほどの距離感だからこそ味わえる、親密で肌が震えるようなライヴだ。そんなプレミアムなライヴを、その場に来られない人達にも楽しんでほしいという思いが本作になったのではないかと思う。

 今回のレコーディングには曲によって三沢またろう(Per)、山本拓夫(Sax,Flute)、ストリングスの金原千恵子グループなども加わり、より豊かな演奏を聴かせている。THE HOBO KING BANDの面々と同様に今や日本の音楽シーンを支える名手ばかりだが、いずれも長年にわたり佐野のレコーディングに関わってきた人たちだ。彼らと共にアットホームな雰囲気を醸し出す歌と演奏を聴かせるのも本作ならではの醍醐味と言えようか。

 THE COYOTE BANDと共にアグレッシヴなライヴをやる佐野も、THE HOBO KING BANDとシックに聴かせる佐野も、どちらも現在の彼であることに変わりはない。年齢と共に着こなしが変わるように曲の表現方法も変わって当然だろう。だがアレンジや歌い方が変わっても曲が持つ力は少しも変わらず、むしろ時間を超えて意味が深まり普遍性を強く感じさせることに何よりも驚く。そしてどの曲も新曲のようにフレッシュでありながら心安らぐ包容力を感じさせる。セルフカヴァーという形であっても、今だからこそ生まれた奇跡のような新作と受け取っていいものだろう。確かな原点から経験を積み年齢を重ねていくからこそ生まれる芳醇な音楽。それを聴く幸せを本作は味わせてくれるのである。