「自由の岸辺」への長い旅
吉原聖洋佐野元春の音楽を聴く、というのは幾つかの旅を同時に経験するようなものだ。それはとても奇妙で複雑な体験であり、ひと言やふた言で容易に説明できるようなものではない。
ミュージシャンにとってのアルバムは小説家にとっての短編集のようなものだ、と思っている人もいるかもしれないが、少なくとも佐野元春の場合にはそれほど単純な話ではない。
たとえば2017年にリリースされたアルバム『マニジュ』はどうだった? コンセプチュアルな仕掛けが随所に施されていることもあり、小説でいえば長編小説のように楽しむこともできるアルバムだったはずだ。そして、さまざまな映像を喚起させたり、別の物語を想起させたり、過去の作品を思い出させる歌詞やメロディやサウンドもあって、それは既成の言語で平易に語ることができるような、そんなレベルのシンプルな体験ではない。
唐突に35年前にタイムスリップするけれど、親子ほど歳の離れた年長の編集者から「筆舌に尽くし難い体験を言葉で書いてみせるのがライターの仕事だよ」と言われたことがある。「そりゃそうかもしれないけどさ、どう考えても無理だろ?」と思ったが、こちらはまだ20代半ばの若造だったし、出版業界の大先輩が相手だから黙って聞いていた。それでも曲がりなりにも40年ほどライター稼業を続けていれば「今回は上手く書けたな」なんて感じたことも幾度かはある。まあ、数ヶ月後にはいつも「錯覚だったな」と思うのだけれども。
そもそも言葉で簡単に説明できるようなものだったら、わざわざ音楽や映画、絵画や彫刻などを作ってみせる必要がない。言葉で書かれた詩や小説だって、言葉で容易に説明できないから詩や小説にするのであって、ひと言で表現できるようなものなら、キャッチコピーだけで充分ではないか。
だから「佐野元春の音楽を聴く」というのは「幾つかの旅を同時に経験するようなものだ」と筆者は書いた。わかり難いかな?
黄金時代のロックとSFによって育てられた佐野元春と同世代の筆者なりの表現で、もう少しだけ具体的に言い換えるのなら「無数の並行世界を渡り歩きながら無数の人生を生きるような感覚」だろうか。え、余計にわかり難くなったって?
そうだな。佐野元春のニュー・アルバム『自由の岸辺』を聴く、という体験を言葉にするとしたら、それはたとえばこんな感じだ。
幼い頃からずっと一艘の小舟を漕いで旅をして来た。その小舟で数多くの河を下り、大きな海を渡った。いつも自由を求めていた。幾つかの場所で小舟を降りて、さまざまな場所で暮らしてみた。だけど結局、定住することはできず、また小舟に乗って漕ぎ出すことになる。そして昨夜、また別の或る場所に辿り着いた。どうやらここは「自由の岸辺」と呼ばれているようだ。
長い旅だった。それは覚えている。ようやく辿り着いた、という達成感もある。しかし、どれほど長い間、その小舟を漕いで来たのか、自分でもよくわからない。そして、ここが目的地かどうかもわからない。
ひとつだけわかることがあるとすれば、わたしはこの「岸辺」を以前から知っている。いや、知っているような気がする、と言い換えたほうがいいのだろうか。一種の既視感がそこにはあるけれど、それに付随する感情は「郷愁」ではない。「懐かしい」とは思わない。
似たような場所を以前にも訪れた経験があることは間違いない。だが、それは似て非なる場所だ。よく似ているが、異なってもいる。その感覚はSFのパラレル・ワールドに近いのかもしれない。
いずれにしても「自由の岸辺」の居心地はよい。わたしにとっては理想郷に近い要素も少なくない。10年ほど前から急激にディストピア化している「現実の世界(ということになっているところのもの)」と較べたら雲泥の差。できることなら、ずっとここで暮らしていたいものだ。
しかし、そういうわけにもいかないらしい。何らかの事情があって、ここに定住することはできないようだ。数日後になるのか、数週間後になるのか、数ヶ月後になるのか、それはわからないが、再び小舟を漕いで、わたしは旅に出るのだろう。
でも、きっといつかまたここに戻って来るはずだ。これまでもずっとわたしはそんなことを繰り返してきた。いや、正確には「ここ」ではない。ここではないここ。それでは「戻って来る」とは言えないって? だとしても「戻って来る」と言いたいのだから仕方がない。そして、そこもまた「自由の岸辺」と呼ばれているかもしれない。そんな気がする。