ひとつひとつのよきこと
西上典之

 「ZOOEY」とは、ギリシャ語の「ZOE(ゾーエー=いのち)」を語源とする。この「ZOE(ゾーエー)」は生物学的な命ではない。生物学的な命が終わっても、決して消え去ることなく輝き続ける命を指している。(アルバム・ライナーより)

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 このアルバムのテーマは間違いなく「命」であり「生きること」である。あるいは「生き続けること」であり「生きのびること」である。恐ろしいスピードでニュースが消費されて行く世界で、僕たちは明日を今日に、今日を昨日に書き換えながら、自分がまだ生き続けていることを確認する。朝が来れば眠たい目をこすりながら朝食もそこそこに通勤電車に乗り込む。

 生きのびる。生きのびること。

 かつて僕たちは真実を、自由を求めた。それを探す旅が人生の意味だと思っていた。だけど、少しずつ分かってきた。僕たちは初めから自由だったのだし、真実はそこらじゅうに遍在しているのだということが。僕たちは自ら望んで不自由になり、真実から遠ざかっているだけなのだということが。

 人間なんてみんなバカだ。「生きてるだけでまるもうけ」と言ったお笑い芸人がいたが、自由や真実なんてその程度のものなのだ。生きているということ自体がギフトであり、恩寵なのだ。すべての祝福はあらかじめそこに内包されていて、初めから僕たちの中にあるのだ。だからこそ佐野は、生きること、生きのびることを切実に欲しているのだ。

 僕たちは、そのようにして、恩寵としての生を生きながら、オートマティックな祝福を受けながら、そこにおいてさらになお語るべき何かを探さなければならない。それは考えようによっては真実や自由を求めるよりもずっと難しいことだ。なぜなら、それは、僕たちが何を燃料にし、何を燃やしてエンジンを動かし続けるのかということに他ならないからだ。そしてその答えは極めて個人的なもののはずだ。

 そのように考えるとき、もはや僕たちにはスローガンは必要ないのだと気づく。そこにあるのは個人的な体験としての音楽であり、そこに見出されるべきものは普遍的な真実なんかであるよりはむしろもっと具体的で、もっと個別的な、自分自身の生を毎秒更新して行くための燃料となるべきよきことだ。それは、見ればそれと分かるもの。それは、当たり前のもの。

 僕たちはやっと、この、当たり前の場所までやってきたのだ。

 特別な言葉を特別に費やさなくとも、当たり前の言葉が自動的に今あるこの自分の生をそのまま説明して行くような場所。「大らかな人生」という言葉が指し示す僕たちの毎日の暮らし。そこに潜むひとつひとつのよきことを手がかりに僕たちは取り敢えず時計の針を進めて行く。その毎日の繰り返しにこそ僕たちの自由と真実はある。

 これはそんなアルバムだ。もちろん、生きていく上で思うに任せないことはいくらでもある。つらく、悲しく、悔しい思いをすることも少なくない。だが、それでも僕たちの生はそれ自体として包括的に祝福されている。どんなにつらく、悲しく、悔しい思いすらも、それ故に祝福されている。「素晴らしき人生」とはそういう意味だ。

 祝福、恩寵、そして慈悲。日々の泡の中にひとつひとつのよきことを見出して行くそのプロセスについて佐野は歌う。そこに分かりやすいスローガンはない。なぜなら僕たちの生活は分かりにくく、曖昧で、複雑なものだからだ。よきことの顕現は個別的だからだ。だが、その個別性は、その背後にあるシンプルな事実を示唆している。佐野はそのことを、言葉を変えて繰り返しているのに違いない。

 「生物学的な命が終わっても、決して消え去ることなく輝き続ける命」とは何か。僕たちにできるのは、あくまで具体的で個別的な、よきことをひとつひとつ見つけてはきれいにほこりを払い続けることだ。それは、「見ればそれと分かる当たり前のもの」なのだ。