ハートランドからの手紙#107
掲載時:98年5月
掲載場所:「Mr. トム・ウェイツ」東京書籍刊
掲載タイトル:「トム・ウェイツ - シェークスピアばりの小さなドラマ」

「シェークスピアばりの小さなドラマ」
佐野元春

●印象 - トム・ウェイツと彼の音楽
 はたちになるかそこそこの頃、東京にあった小さなホール、久保講堂でウェイツのライヴに触れた。ステージにはピアノ一台という簡単なセット。開演とともにウェイツが現れた。よれたスーツにボヘミアン気質を漂わせた風貌。メディアで喧伝されているイメージどおりの、しかし生身のウエイツがそこにいた。ショーは進み、時折見せるコメディアン的な演出。スーツの裏ポケットからウイスキーの小瓶を取りだしてみせる。それが演出上のサーヴィスだと知っていながらも、「そうそう、そうでなくちゃ。」とばかりにどこからともなく沸きあがるオーディエンスからの拍手。ウエイツは自身が何者なのかよくわかっているかのようにゆったりと振るまう。オーディエンスもまた、ウェイツがここに何をしに来たのかよくわかっていた。
 ウェイツの音楽作品をレコードを通して聴く。おそらく多くのウェイツ・ファンがそうであるように、彼のユニークな唱法に気が魅かれる。ドスがきいてうらびれた、しゃがれながら打ちひしがれた彼の声は、聴き手の憐れみを誘うばかりか、ときには怖いものみたさのホラー映画のようにある種の抵抗できない魔力のような魅力をすでに備えている。その声が聴き手に訴えかけるとき、聴き手はこのソングライターの書いた、多分苦労して編みあげただろう幾多の「物語」にそっと耳を傾けてみようという気にさせられるのだ。耳を傾ける。これがウェイツ音楽作品の正しい聴き方でもあるのだろう。ウェイツの奏でるあまり上手とはいえないピアノ。悲哀の端々からこぼれ落ちる言葉。ウエイツの意図を汲んでいるかのようにそれなりの対応を見せるセッション演奏。どれもが本音とも気取りとも区別のつかないパラドキシカルな表現として聴き手の胸に迫ってくる。

●ウェイツ風味のソープオペラ
 デビュー・アルバム《クロージング・タイム》に収録された曲〈ロンリー〉は、それ以降ウェイツがそうしたやっかいで取りとめない人生の関心事に長くつきあっていこうという宣言のような曲でもある。夜のハイウェイから見上げた星空、閉店まぎわのバーにポツンと残された恋、居場所が見つからないまま月光になぐさめられるインスピレーション、天使との逢引きに夢をはせるさみしげな眼をした街、ドライヴ・イン、モーテル、人気のないグレーハウンド・バス停留所、まばゆいネオンとサキソフォン、週末深夜のブロードウェイから酔いどれ達の天国に至るまで、そこに登場する男や女の人生はどれもが忘れかけていた憂うつに怯えながら、後悔と苦い現実に打ちのめされた、言ってみればウェイツの書く物語は、負け犬たちへの憐憫を綴った彼自身の記録写真だ。
 一方で、多くのソングライターの関心事でもある、「愛」について言及するとき、ウェイツの才能はおどろくほど形式的なあるいは古典的な作法によってストーリー・テラーとしての領分を発揮する。なぜこうも、ウェイツの書くラブ・ソングは、ソープオペラなのか?感傷的すぎるくらい濡れた情感に縁取られたウェイツの愛の唄は、ともすればあまりに自己愛に忠実なために、私立探偵小説のパロディのように響くことさえある。しかし、ウェイツがしがない昼メロ用の脚本書き屋を演じるのを見て、魅力的と感じることは悪くないだろう。「真実の愛」と銘打ちながら中身を聞けばソングライティングの技量がおぼつかないゆえに結局のところ「偽りの愛」にしか聞こえない凡百の唄に比べれば、ウェイツのライティング技術にケチをつける隙間はない。ウェイツはこう思っている。愛を巡る物語には結局のところステロタイプなドラマツルギーが不可欠だ、と。つまりポピュラー音楽に描かれるべき「愛」は、聴き手を楽しませる種類のものでなければ、ということだろう。悲恋や酬われない愛に敏感に反応する聴き手にとって、ウエイツは全身全霊の献身を約束してくれる稀なライターとなる。
 そこにひとりの女がいる。名前はマーサ。その昔彼女を愛した男、トム。別れてから長い歳月が経っている。今は互いに結婚の相手を見つけてそこそこの暮らしをつつましく営んでいる。ある日、トムがマーサに電話をかける。長距離電話だ。トムは電話交換手にこう告げるところから物語は始まる。

 交換手さん、この番号でつなげてください
 もうずいぶん時間が経つけれど
 彼女、僕の声を覚えてくれているといいなあ

 物語への導入の最初のラインは、どのソングライターも一番気を払うところだ。まず、主人公はマーサの前に電話交換手と軽くおしゃべりをする。マーサへ想いを告げる前にまず間接的な相手に話しかけることで、主人公のもどかしい気持ち、久しぶりの電話への躊躇を見せる。ここで曲が始まってから数秒も経たないうちに、聴き手は直感的にトムとマーサの関係を風景として思いえがくことができる。簡潔でありながら魅力的な曲の導入だ。

 もしもしマーサ? 僕だよ。
 遠くからかけている でも電話代は気にしないで
 40年経つんだね
 マーサ、外でコーヒーでも飲んでいろいろ話そうよ

 主人公はどんな人?という聴き手の好奇心に簡潔な描写で応える。「でも電話代は気にしないで」、のひとことでこの男の性格付けを決める。男はけっして強引な性格ではない。女への優しい気配りがややもすると裏目に出るくらい優しい性格だ。そして具体的な数字を含む描写、「40年経つんだね」。聴き手はここで、過去から現在に至る相当長い時間にたゆたう物語なのだと知る。同時に唄が始まってじつに一分以内で、物語の概略を直感することができる。
 しかし一方で、聴き手というのは残酷なほど性急だ。早く次の展開を知りたがり、その展開が自分の意に沿わないものであると聞くことをやめてしまうかあるいは何か別のことを始めてしまう。そこでウェイツはやおらポケットから秘密の切り札を出す。次のラインがそれだ。

 あの頃、ふたりは詩のような甘く美しい毎日だった
 ふたりにとってお互いがすべてだった
 明日のことや傷つくことなんて考えちゃいなかった

 音楽はここにきていっきに高まりを見せる。それまでのピアノ演奏に加えてビィオラが対抗メロディーを追っていき、言葉の持つ、ロマンティックな響きはさらに永遠のものとして意味付けられる。聴き手はほんの瞬間軽い目まいに似た感覚の中で、ウェイツのしわがれ声を聞き、突然広々とした空間に投げだされたかのようにこのラインを心地よく受けとる。ああ、いいな、と感じる瞬間だ。
 物語の展開も然り。それまで聴き手は、主人公とマーサの個人的な会話を盗み聞きしていたところから、いっきに聴き手全員の人生にかかわるある普遍的な関心事へと引きよせられる。若かったあの頃の無鉄砲さに寄せる郷愁。誰も引きとめることはできなかった時の流れを、大人になった今、わずかな後悔と寛容をもって受け入れる。あがなうことのできなかった運命とその痛み。ウェイツのしわがれた声が、聴き手の経験値を越えていっそうの感傷を誘う。 ここまで聴きすすんできたところで聴き手はソングライターとしての、またパフォーマーとしてのウェイツに脱帽せざるをえない。主導権は完全にウェイツ側に渡っている。ヘタな脚本家がドラマ仕立てにしようものなら陳腐なソープオペラにしかなりえないありふれた物語も、ウェイツの仕立てによるとたちまちシェークスピアばりの小さなドラマとなる。

●アメリカ都市労働者階級のおとぎ話
 相変わらずのありふれた物語にこそ真実がある。ウェイツの作品を聴いているとそう思う。アメリカ人の友人は証言する。スプリングスティーンが的確な解釈でカヴァーしたことで知られたウェイツの佳曲、〈ジャージー・ガール〉。
 「この曲を口ずさめばニュー・ジャージー出身の女の娘を簡単にくどくことができるよ。それくらい真実味に溢れたいい曲なんだ」。
 この曲に登場する8番街の娼婦に限らず、ウェイツの曲には、ひょっとしたら実在するかもしれない親近感溢れる魅力的なアウトローが多く登場する。あてつけのように毎年ヴァレンタイン・カードを送りつけてくる元の恋人 (〈ブルー・ヴァレンタイン〉)、ドラッグの常習で借金を腐心してくる女 (〈ミネアポリスからの女からのクリスマスカード〉)、だらしなさに自分を哀れみながらも恋人に忠誠を誓う純情なヤクザ (〈セイビィング・オール・マイ・ラヴ・フォー・ユー〉)、戦場での慰安婦に気取った別れを告げる流れ者 (〈ルビーズ・アームズ〉)等々。こうして見てみると、ウェイツの曲に登場する役者は一様に、ビリー・ザ・キッドから辿るアウトローの系譜を演じ、アメリカの大衆娯楽にしばしば登場する典型的な労働者階級のヒーローでありヒロインでもある。アウトローに言葉を与え、そこから真実をあぶり出す手法は、こと映画や小説だけにのみならず、大衆音楽でも多用されているとおり、常套ではあるが普遍でもある。その点で言えばウェイツは、ディランやスプリングスティーン、ルー・リード、ニール・ヤングといった音楽作家と同じ系譜にあたる。
 われわれが物語や歌に望むことは、ひょっとしたらそこに描かれている景色は本当の出来事であり、もしそうならば、生きていくことに伴う痛みをほんのわずかばかり楽にしてほしい、ということだろう。つまり、日々、ソングライターから届けられる幾百の歌の中から、気の利いたフェアリーテール (おとぎ話)と幸福な出会いをしたいと望んでいるのだ。
 残念ながらそうした出会いはそう多くはない。僕は一介のソングライターとして多感な時期にウェイツの作品と出会えたことは良かったと思っている。少なくともウェイツの歌に熱心に耳を傾けている限り、人生はあながち捨てたものじゃない、と信じられるのだから。

(了)


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