ハートランドからの手紙#84
掲載時:94年11月
掲載場所:駿東宏編集「モジュール Vol.2」レコード評

ロックンロールの女神(「Jaran Jaran」MIKA /Rec No.FORLIFE FLCF-3535)
佐野元春

ロンドン82年の冬、僕が初めてMIKA-sanと会ったとき、彼女はセクシャルなキッチン・ママであるのと同時に、偉大なインスピレーションを得た魚でもあった。品のいい手作りサラダをごちそうになりながら、僕は初めて彼女自身の手による音楽を聴いた。カセット・テープに収録されたラフ・スケッチは言ってみれば原石のダイアモンドだった。それまで何年間か暖めてきたアイデアがあまりに多すぎるため、またそのアイデアを音楽的に実現する際、いったいどんなふうに表現したらいいか、彼女自身もどかしく感じていたにちがいない。

僕が10代の頃、つまり70年代、彼女はサディスティック・ミカ・バンドのリード・ヴォーカリストだった。ステージ上の彼女のパフォーマンスは刺激的だった。教室の女の子たちとは明らかに違った。ブラをつけずに唄うことに何か特別な意図はなかっとしても、彼女の奔放さ、彼女の激しさ、彼女の美しさは、当時の男の子たちのほとんどを睡眠不足にさせた。当時、彼女がタイムマシンに何をお願いしていたのか理解できなかったとしても、ある時代のある夜、日本で初めてのロックンロールの女神が誕生したことを祝福しないわけにはいかなかった。

94年、時を経て、僕が今手にしているMIKA-sanの新作「Jaran Jaran」はその当時の僕の彼女に対する個人的な想いをともなって、ボッティチェリの絵画のようにたち現われた。原石のダイアモンドは見事に磨き上げられ、ルビーやサファイアに彩られた声とサウンドが一気に僕の体内を貫いてゆく。すべての愛しい対象に向けられた彼女の想いが時空を越えて拡がってゆく。僕は幸福。Jaran Jaranしながら彼女の庭を散歩する。そしてようやく気づく。あの時代のあの夜、タイムマシンにお願いしていたのは、唄っていた彼女ではなく、聴いていた僕自身だったのだ。


Prev Up Next

無断転載、引用を禁じます。Copyright M's Factory Music Publishers, Motoharu Sano.