ダイアン・ディプリマと並びビート世代の重要な女性作家として数えられる、アン・ウォルドマン。その創作はもとより、ニューヨークのセント・マークスで活動する〈ポエトリー・プロジェクト〉を母体に、パティ・スミス、ローリー・アンダーソンら、ニューヨーク・パンクのアーティストの始動につながった〈ポエトリー・イン・モーション〉を牽引するなど、次世代のために道を切り開く運動家として、彼女の姿は常にシーンの中心で見ることができる。やはり創設から深く関わったこのナロパの地でも、その強い意志を秘めた凛々しい表情を崩すことなく、彼女は我々の前に颯爽と現れた。

タイトル:アン・ウォルドマン
インタビュー:佐野元春
掲載号:This Vol.1 No.1 '95






――ニューヨークであなた方が行っていた〈ポエトリー・プロジェクト〉について、教えてください。いつからいつまで行っていたのですか?

アン・ウォルドマン(以下AW) 現在でもまだ続いています。プロジェクトとして活動する以前にも、コンテンポラリー・ジャズや詩人や映画監督などが集まって、たとえばウォーホールの最初の映画などを上映していました。他にもシアター関係など面白い活動は起きていたのですが、1966年からきちんとした形になってアート・プロジェクトを開始し、リンドン・ジョンソン大統領政権からはわずかですが補助金が出たこともありました。こうしてニューヨーク、ロウアー・イーストサイドのそれまで孤立していた若い芸術家や詩人、地元のライターなどが集まって、私たちのプロジェクトは起きたのです。それ以前にも、コーヒーハウスやバー、アート・ギャラリーなどで集まる習慣はありましたが、正式に世間の評価を受け出した期間だけでも25年以上もの活動となっています。私は大学を卒業してからすぐに、2年間プロジェクトのアシスタント・ディレクターを勤め、その後68年から78年にかけてディレクターを勤めました。

――その〈ポエトリー・プロジェクト〉の活動の中で、80年に“ポエトリー・イン・モーション”が行われたわけですが、詩と他のメディアの結びつきについてはどう思いますか?

AW 60年代にはジャン・ジョルドなど多くのライターたちが政治的で試作的な活動を行ってきましたが、私はローラースケートをはいて反戦の詩などをストリートに持ち出す試みも行いました。セント・マークスはこのような試作的な活動の天国となったのです。それと同時にダンサーやミュージシャン、後には有名となったパティ・スミスやジム・キャロル、ルー・リードなどのアーティストたちが最初の朗読やパフォーマンスを行ったのもこの地からでした。特に週に一晩、パフォーマンスを中心とした活動を行いました。ジョン・ジョルノはストロボや多声音を使用したり、ローリー・アンダーソンはバイオリンの音を声とのコラボレーションなども行いました。他には詩人たちの即興の詩や、ソロの楽器によるジャズ・ミュージシャンの演奏なども…。  ですから、詩、声と他のメディアとの様々な形での結びつきを見せたという意味で、“ポエトリー・イン・モーション”は良い機会だったと思います。そして〈ポエトリー・プロジェクト〉が成功した大きな理由は、毎週朗読を行ってきたからだと思うのです。25年間の間、欠かさず毎週ですよ。

――ギンズバーグ氏は先日、記者会見の際に、詩とコンピュータ・ネットワークの結びつきについて語っていましたが、これについてあなたはどう思いますか?

AW それについては賛否両面の感情があります。最初にまず感覚的な部分について考えなくてはなりません。実際の人間の声はどのくらい伝えられるものなのか――肉体的な結びつきがなくては、難しい部分があると思うのですが――同時に詩の将来的なことも考えなくてはならないとは思います。もちろん、現在MTVで紹介されているような活動もあるわけですが、ただ私は、実際の人間の存在と、直接的な伝達という方法に並ぶものはないと思います。アレン・ギンズバーグや他の詩人が朗読するのを聞くと、私はその場にいることの必要性を強く感じますから。彼は映画、ビデオやテープでも素晴らしいのですが、やはりそこには何かが少し欠けています。新しいコミュニケーション・ツールに興味はあるのですが、私は同時に懸念も抱いているのです。エド・サンダースは言葉に色をつけたり、ディスプレイの上で文字の動きをつけたり…というような可能性について語っており、私自身13歳の息子がいるので、そういうアピールの強さはよくわかります。でも、やはりちょっと気をつけなくては…という感じがします。 〈ポエトリー・プロジェクト〉や、ここナロパで見ることのできるパフォーマンスについて一言述べたいのですが、私たちはこれらのものは「アウト・ライターズ・トラディション」――アカデミックな正統派から外れているライターたちの伝統だと思っています。〈ポエトリー・プロジェクト〉が成功したのは、その他に方法がなかったからでしょう? 大手の出版関係で詩や小説をコントロールしている人々のことを、私たちは「ニューヨーク・リテラリー・マフィア」と呼んでいるのですが、彼らたちにとって朗読というのは全然重要ではなかったのです。ですから私たちの活動は、強く需要を感じた人々の間で自然に生まれてきたものなのです。

――あなたがが現在主宰している“ジャック・ケルアック・スクール”の将来の方向性について聞かせてください。

AW 芸術の広がりという意味では、今は様々な可能性が起きている時代です。私たちはここに集まってきた生徒達が、将来世界中に散らばって文化的な活動家になるという義務感を自覚して欲しいと思っています。  最近、ウィーンで“シュー・フレディクトン”と呼ばれる学校が出来たのですが、もともとはウィーンの詩人やアーティストがここを見学にし、我々がどのように運営しているかを参考にして造られた新しい施設なんです。彼らは非常に朗読という口語の部分を大切にしています。世界中から集まってきた詩人が詩を朗読し、それぞれの語学を完全に理解出来なくても構わないと言う姿勢で、それよりも声の質やジェスチャー、感情などを重視しているのです。メラデス・モンクの公演をご覧になりましたか? あれは正確には詩の朗読ではありませんけれど、あのような形の声を使ったものが多く行われています。“シュー・フレディクトン”は“ケルアック・スクール”に大きな影響を受けたと思います。このようなことはもっとたくさん起きてくるでしょう。  さらにはスクールを通して、もっと多くの過去20年分の出版物などもまとめていきたいと思っています。私は最近400ページほどの本の編集を終えたばかりなのですが、それはこのナロパで行われたバラカやバロウズ、そしてアレンなど多くの人々の講義やエッセイをまとめたものです。それらはすでに我々の手元にあるものなのですから、世界に発表するという意味は大きなことだと思うのです。また拡張に関しては、将来自分たちのパフォーマンス・スペースや文献の保存場所などを建てて行けるように、資金寄贈者が現れてくれることを祈っています。今回生まれたギンズバーグ・ライブラリーはその良い手始めだと思います。

――この学校の卒業者で、ニューヨークでライターとして活躍をしている人がいたら紹介してほしいのですが。

AW 卒業はしていませんが、以前の生徒でマギー・エスタという若い女性がいます。ニューヨークをベースにCDを制作中ですし、あちこちに公演旅行をして、MTVなどにも出演して有名になりつつあります。他にはエリザベス・ボレルーはロスにいてロックン・ロールのフェスティバルや詩のパフォーマンスをしてあちこちを飛び回っています。その他にはニューヨリカン・ポエトリー・カフェのイベントに出演して賞を受賞したり、〈ポエトリー・プロジェクト〉に参加したりしている生徒もいます。こうして私たちには現在、ウェブ(蜘蛛の巣)ワークと呼んでいる、関係が築かれています。  私たちはさらに、アメリカの印刷方法や製紙の伝統を失わないために、ハリー・スミス印刷場を設置しました。また、“プロジェクト・アウトリーチ”と呼ばれる、生徒たちが刑務所やホームレス、養老院や病院、公立学校などに派遣されて仕事をする活動もあり、今後地方のコミュニティに貢献していくことを願っています。仏教の精神では物を書く能力というのは、ストーリーを伝えるということです。他にもまだまだ出版されていないギンズバーグなどの講義がありますので、出来るだけ発表していくつもりです。また生徒の間にも発見されたい、という欲望があります。ここをエネルギー・センターとして新しい出版物を作るという願望は常に存在していますので、友人同士の間で活発に活動をしていくように呼びかけています。こうして新しい活動が起きているのは非常にエキサイティングなことです。

――アレン・ギンズバーグと最初に出会った当時のことを教えてください。

AW 私はグリニッジ・ビレッジのマクデューガル・ストリートで育ちました。ボヘミアンの両親の間に生まれ、フォーク・シンガーのピート・シガーやレッド・ベリーなどのアーティストと近所で一緒に育ちました。また兄はジャズを勉強していて、セシル・テイラーのことはとても若い頃から知っていましたし、スティーブ・レイシーは私の親戚と婚姻関係にありました。ですから、このような家庭環境の中で、自分も詩を書き出したわけです。  アレンについては最初、私の父が50年代に教えていたペース大学に彼を招いたことがあります。彼はまた、母のお気に入りのライターでもありました。私の父は戦争の時はドイツにおり、アメリカに戻ってきてから私たちはとても小さなアパートで暮らしていたんです。貧しかったけれど、当時はとてもエキサイティングな時代だったと思います。ですからアレンの存在も、ずっと私の意識の中にありました。  高校の時に、ファリンゲッティ、ドナルド・アレンの人類学、アウト・ライター・トラディションについてのニュー・アメリカン・ポエトリー、ブラックマウンテン、チャールズ・オルソン、ロバート・プレーリー、サンフランシスコ・ルネッサンス…など、若い人間にとってクラシック以外の詩の存在を知るにあたって非常に重要な書籍類に目を通していました。61年か62年のある日、私はアレンに電話をして私の学校で詩を朗読してくれるように依頼したのですが、その時は都合がつきませんでした。その後、はじめて彼に会ったのは65年、彼がバークレー・ポエトリー・コンフェレンスに出席した時のことです。私は他の若い詩人たちとも交流を深めましたが、アウト・ライターズ・トラディションに関連するものでは非常に意義のあるもので、同じような催しが当時東海岸や西海岸の各地で行われておりました。その時、私はある誓いをたてました。それはこれが私の生きるべき道だ――ということです。私自身の仕事は、自分のためだけではなく、ライターのコミュニティで人々が集まる場所を提供する役割を果たしたいと思ったのです。当時ビートの間で、コミュニティの共同体意識というのは驚くべきものでした。そうした意味で、バークリーのコンフェレンスは私にとって非常に重要でした。  そうして、アレンとは60年代の終わりから70年代のはじめにかけてかなり親しくなりました。ちょうど彼はニューヨークからインドに行っており、戻ってきた時には急速に政治的な活動に力を入れはじめました。その頃私はバーモントにある“レイル・オブ・タイガー”という仏教センターに通ってたので、アレンが瞑想について私に意見を聞きに来たこともありました。  テッド・バーガンなどニューヨーク・スクールの二世についてご存じですか? これはアーバン・ポエティック社会でのひとつの動きなのですが、アレンの世代やブラックマウンテン・カレッジ、またニューヨークで起きる以前にサンフランシスコで起きていた様々なムーブメントに影響を受けたものです。アレンは私たちの世代にとって、すでに長老的な存在になっていました。けれども仏教に教えに、師が涅槃のかなたに行ってしまわないように、弟子が刺激を与えるというものがありますよね。「先生、行ってしまわないでもう少しここにいてください」という――ですから昔の師たちを招くというのは大切なことです。今回のナロパにも200人ほどの新しい人々がここに来ているわけですが、この伝統を続けていってもらうことを願っています。

――あなたの著作活動を含めて、将来の計画を教えていただけますか?

AW ペンギン・ブックスから『KILL OR CURE』というタイトルの私の本がもうすぐ出版されます。それから1年半前には男性のエネルギーについてのポエムで、350ページほどのリサーチや古い手紙、伝説、家族の歴史などについてコラージュ形式で23セクションに別れた本が出ましたが、今は200ページほどのそれの続編にとりかかっています。これは講演でもよく使うのですが、一番好きなのは第一部の最後の部分でジョン・ケージへのオマージュで歌の形式を取っています…(さわりを歌う)ほとんどオペラっぽいものなのですが。本の中で読む部分と口頭の部分が別れているのです。あとはいくつか旅行や講演なども予定しています。多分ハル・ウィルナーとCDを作ることになると思います。歌はたくさんあるのですが、今のところ何も出ていません。70年代のアレンのCDには参加したのですが。色々なミュージシャンと仕事をしているのですが、中には試験的なものもあります。あなたの音楽はどのようなものですか?

――ジャズとロック、そして日本の伝統的音楽を混ぜたものです。

AW そうですか。日本の伝統音楽というものは惹かれますね。私は今、ポリキャノンが行っている仏教の尼の歌を集めたものに興味を持っています。古代サンスクリットの詩で口頭で伝えられてきたものです。年をとった女が家庭や夫の元を去っていく時の感情を歌ったもので、当時の女性の歌としては非常に珍しい、興味深いものです。タントリック仏教では、女性が力があったのです。ヤビヨンというものを知っていますか? これは大きな男性のイメージに小さな女性が性愛のポーズをとっているもので、ここでは逆のもの、ヨンヤビもあるのです。これは女性が大きくて男性のイメージが小さい…エロチックなイメージですが、スピリチュアルであり、女性の立場からとらえたものなんですが…。  他には過去のアウト・ライターの仕事を世間に出すことと、ビートのアンソロジーも編んでみたいと思っています。それから先週、ある人から電話があり、今度日本に行くことになるかもしれません。これまでナロパのプログラムでインドネシア、バリに住んだことがありますが、アジアに行くのは本当に楽しみなことです。

――どうもありがとうございました。


ポエトリー・イン・モーション
1980年代の半ば、アレン・ギンズバーグやグレゴリー・コルソを中心に開かれた。詩の存在、言葉の意味を改めてとらえなおしたものだが、これに呼応するかのように様々なアーティストが、彼ら同様言葉の意味を問い直していった。ジョン・ケイジ、ローリー・アンダーソン、デヴッド・バーンら、ジャンルを越えて参加、新旧の詩人たちの交流の時期としても記憶に新しい。

MTV
93年秋、「Figtin' Words」というタイトルで、ニューヨリカン・ポエツ・カフェで活動している詩人を中心に、彼らが15秒間ポエトリー・リーディングするという番組間のジングルをスタートさせた。また、MTVの人気プログラム「Unplugged」でも"Spoken Words"というタイトルで、カフェを模したセットを作り、バンドと詩人のセッションを放映した。94年には20の都市のカレッジを回る"Free Your Mind"ツアーも開催した。

ジャック・ケルアック・スクール
ナロパ・インスティテュートの創立と同時に、アレン・ギンズバーグとアン・ウォルドマンによって開設されたライティング&ポエトリーの教育機関。30年代、ジョン・アンドリュー・ライスによってノースキャロライナに創設されたポエトリー・プログラム<ブラック・マウンテン・カレッジ>をモデルにしている。正式名称は「The Jack Kerouac School of Disembodied Poetics」という。 ケルアックの名を冠したスクールだけあり、ここで学ぶ生徒たちは、常にオープン・マインドを志しながら、心に感じたままレアな言葉を放つための努力を求められている。


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