荒地を青くさく往かないか
池内克典

 前作『THE SUN』は、それまでにない人間くさい元春さんを観たようだった。それは、まるで小津安二郎監督の映画を見ているような気さえした。初期の作品には『街』の情景を、時にはアメリカのような、時にはヨーロッパのような、そしてまた東京(都会的)のような匂いがする表現手法にやられた。それから、ずっと新たな挑戦を続けていたのは言わずとしれたこと。

 そして、その挑戦の最中に田園だとか片田舎の雰囲気をも醸し出したように思えたのが『THE SUN』。発表当時、あまりに僕の心情にマッチし過ぎて恐いぐらいの感動を憶えた。今も歳を重ねる毎に更に深くマッチする不思議なアルバムだ。だから3年振りなんだけど、実は「もう新譜?」という感じがした。
 
 今回の『Coyote』は更に「人間くささ」が増し、その上を行く滲み出てくるような「青くささ」が、40歳を迎えようとする微妙な自分にスッと浸透するものと、ハッキリ拒絶するものの両方を(現時点で)味わった。

 12個を一体としたストーリー展開、全てに繋がる「荒地」という表現、これは現在の世の中を憂い悲しむだけではいけないのだと言わんばかり。それは彼女に向けて発信する言葉でありメロディであり、その表現が今回、僕には妙に「青くささ」を感じたのである。何回もリピートするうちにそれ(青くささ)が何故なのか、一つの応えを見つけたような気がする。

 環境問題・殺人・捏造・偽装・テロ。全てに置いて実年齢でまともに受け止めていてはあまりにも辛すぎる僕ら(元春さんファンの年代)。その僕らに向けてのメッセージとして、そういった事柄から逃避するというわけではなく、もっと目線を下げて見ようじゃないかというものが『Coyote』の言葉、メロディから伝わってきた。

 今年、バースディ・メッセージを受け取った元春さんはお礼文の中で、51(歳)回目に×をして15としたあの意味が、このアルバムに込められているのではないか?そんな気がしてならない。
 
 何気に『君が気高い孤独なら』のPVをつけて観ていた。もうすぐ4歳になる息子がフッと目をやり、イントロからノリノリ。ついには出だしの部分「もしも君が気高い孤独なら〜」を何回も父さんにリピートさせていた。するとすぐに口ずさむようになった。あとサビの心地よい「スーイソー・タララン(メロディも言葉にする息子)・ブルゥービー」も。何を感じたのかはわからない。しかし4歳の子が「気高い」とは。