一家に一枚の『Coyote』論
今井健史

 佐野元春がアルバム『Coyote』を語る時、まず最初に「現代は荒地」だと定義している。ここには何の異論もない。それどころか、千里眼をもった人が、さまざまな洞察の果てに紡ぎ出した言葉としての「荒地」ではなく、もう誰が見ても明らかなくらいの「荒地」だと思う。

 例えば、警察庁が発表した自殺者の統計。1998年を境に一気に3万人越えをして、去年は32,000人だという。

 世は格差社会。「勝ち組」「負け組」の二元論で括ることで、自分の立ち位置をキープすることに腐心する人たちが山ほどいる。しかし「勝ち組」の人たちのほうが不幸に見えてしまう。人の幸せが、金と地位が産む快楽にすり替えられているんだとしたら、それほど不幸なことはない。

 数カ月前から頻出している、身内や子供に手をかけるという残酷な事件。「コヨーテ、海へ」の中にある「毎日の猥雑なニュースに/神経をやられちまいそうは日々」という一節。まさにそのとおり。これ以上テレビをつけてたらどうにかなってしまうと真剣に思ったこともある。

 他にも挙げようか? この世が荒地だって、いくらだって立証できる。

 『Coyote』には明確な主人公がいる。コヨーテ男だ。そしてこの男による「荒地」の旅の記録という形態をとっている。1曲目の「星の下 路の上」で、軽快なロックンロールに乗って登場するコヨーテ男は、路上に立ち「死ぬまで悩み尽きない」と言う。そしていきなりアルバムの核心に迫る「荒地の何処かで」において「真実が醜い幻ならば/ぼくらは何を信じればいいんだろう」と嘆いている。たしかに前述した世の風潮を考えると醜い幻にしか思えない。でもそこは佐野元春流の楽観主義とも言える「荒地の何処かで君の声が聞こえる」というフレーズに救われる。

 「君が気高い孤独なら」は、とても清々しいソウルサウンド。リズムはモータウン、ストリングスはフィリーソウルっぽくて、それでいてフレンチポップ的なヨーロピアンテイストも見え隠れする、これぞまさに往年の佐野元春流ポップソングだ。コヨーテ男がある少年と出会い、彼が旅立とうとする前に「オレの歌を聴いていってくれ」と何らかの知恵を託そうとするが、コヨーテ男には「外が土砂降りになる」、つまり彼の行き先に困難が待っていることを分かっている。たぶん少年は大人になるに従い、いつか自分の気高い孤独と対峙しなければならなくなる。うまく折り合いをつけるか、捨てるか、形を変えるか、大切に抱え込えたまま社会と断絶するか…。もちろん歌の中でその答えは出ていないが、「どうしようもない世界を解き放ってやれ」「いつだってこの音楽がすぐそばにある」というフレーズを聞いたら、気高い孤独をどう熟成させていけばいいか自ずと分かるはずだ。

 「折れた翼」。『Coyote』というアルバムの“生々しさ”は、この曲からスタートする。この曲あるのは、古今東西の良質なロックがもつ湾曲した音世界。英語のタイトルは「Live On」。歌を聴くと「リボン」に聞こえて、歌いかける相手が可愛い女の子をイメージさせるが、コヨーテ男がかつて伴にしていた女性に対する自分のエゴと、その後悔の念が伝わってくる。そして「リボン」はかわいい女の子から、「生き続けろ」というストレートなメッセージに変わっていく。「呼吸」もまた、女性に対する切実かつ、包容力のある曲だ。精神が傷ついた女性に対して「君のそばにいて、どんな時も君の力になろう」と何度もリフレインする。鬱病は自分には関係ないこと、と歌の世界から離れることも簡単かもしれないけど、前述した自殺者増加の話を思い出してほしい。自分はマトモだと目を背けている人が、実はいちばん脆(もろ)いんだと自覚するのが大事。そうしたらこの「呼吸」という曲は、セーフティネットになってくれる存在だと思う。

 「ラジオ・デイズ」は、佐野元春にしては驚くほどノスタルジックな内容の曲で、古き良き“ラジオの日々”を歌っている。思い返すと2005年12月に出た雑誌「クイックジャパン」のインタビューで「ラジオ本来のポテンシャルをもう一度引き出すんだ」と語っていることからも分かるように、このノスタルジアは単なる懐古ではなく、強力な意思を読み解くことができる。

 「Us」。何とも言えないグルーヴ感、トラッドフォーク的な和音、UKロック的な歪みやハーモニー、ドラムンベースにも通じるリズム隊のウネリ……。『Coyote』はアルバム中盤、この曲でハイライトを迎える。歌詞も凄く、ひとつひとつのフレーズは、これでもかというくらい平易で分かりやすい。しかし変拍子&不協和音的に歌われると、言葉のひとつひとつが、脳細胞にダイレクトに接続してこようとする。この感覚はスポークンワーズを体験したときと同じ感覚だ。もしその感覚が正しいのなら、「Us」はスポークンワーズとロックの融合という物凄いアートフォームの最初の一歩なのかもしれない。

 歌い出しがいきなりサビという「夜空の果てまで」は、まさにポップチューンにおける王道かつ佐野元春ポップチューンの心髄となっている。詩も絶望と希望が交互に歌われており、1曲の中に絶望と希望、影と光が交互にやってくるから、聞き手のその時々の状況によって、まるで振り子のように清と濁に交互に振れるような懐の深さがある。そして続くのが「壊れた振り子」だ。90年代以降の佐野元春の十八番ともいうべき、オーガニックなアメリカンフォークロックのテイスト。詩の内容は聞き手の想像に任せている部分が多いが、作用・反作用を繰り返して均衡を保つのが、どの世界・社会でも正常に機能している状態であろう。しかし歌の中の振り子は、ひとつの方向に傾いたまま均衡を保てていない。曲の中の「土砂降り」は、荒地である現代の比喩にも取れるし、「君が気高い孤独なら」に出てくる土砂降りとは、こういう状況であるとも取れる。

 そして再度、軽快なロックンロールが響いてくる。「世界は誰の為に」は、中期ビートルズのジョン or ジョージのような楽観性に富んだ哲学ロックだ。曲の中に出てくる「あなた」は神なのかもしれない。さらにそこから通ずる倫理観なのかもしれない。「あなたがいくつであろうと/かまっちゃいられない」と歌うとき、宗教的倫理観を踏まえた上で「変化」を起こそうという意味に取れる。そしてそこには、デカルトの有名な言葉「我思うゆえに我在り」にも通じる哲学 ? 文明や科学が正常に進化していくために、世の中で起こっている事、これから自分がやろうと思っている事は本当に真実なのかを、悩んで、疑って疑って疑いぬく姿勢 ? を感じるのだ。

 そして「コヨーテ、海へ」こそが『Coyote』という音楽アルバムの「核心」、言い変えるならクライマックスだ。「星の下 路の上」から始まったアルバムの旅は、この曲に向かわせるための40分強の道程だったと考えても良い。初めてこの曲を聴いた時、椅子から転げ落ち、聞き終わったあとはしばらく放心状態になった。完全にやられてしまった。

 「コヨーテ、海へ」には、他の曲のように君も彼女も僕らも登場しない。「君」は出てくるが、歌いかける対象ではなく、完全なる独白である。「コヨーテ、海へ」というタイトルなので、独白しているのはコヨーテということになるが、それはあくまでも表現上のテクニックであり、やはりこれは佐野元春の独白なのではないだろうか。

 それはなぜか? 前作『The Sun』のエンディングである「太陽」と真逆ながら対を成す曲だと自分なりの解釈があるからだ。「太陽」では、残酷な現実と対峙しながら「夢を見る力」を希求し「無事にたどり着けるように」と希望が歌われている。歌いかける対象は、絶対的存在であるGodだ。そう、傷つきながらも「生」を継続するための祈りのような歌なのだ。一方「コヨーテ、海へ」は、残酷な現実の中「もう夢など見ない」「希望は切ない」「愛は儚い」「正義は疎い」と言い放つ。この時点で歌い手のマインドは傷つくのを通り越して、たぶん血まみれなのだろう。そして今はただ生命の根源であり、自分という個の根源の象徴である「海を目指す」と歌われている。歌の中の存在感として、海とGodは対等だ。そして海にたどり着けさえすれば「ここから先は勝利あるのみ」だと。それゆえに「自分自身でいること」を希求し、「俺たちきっとどこかで会えるはず」と希望している。これこそ「太陽」と真逆を成しながら対になる根拠である。

 作家としての佐野元春は、コヨーテを海へ向かわせたが、それと同時に表現者として、100パーセント自分に内在するものを出し切っている。個の尊厳、生の尊厳こそがこの世界で慈しむべきものである。このテーマに対して、前作の「太陽」と今回の「コヨーテ、海へ」は、ものすごいパワーでもって表現していると思う。

 さらに、日本語によるロック表現はここまで極まるものなのか、と思えるほど素晴らしい。

  “ここから先はショウリアル/ショウリアル/ショウリアル
  勝利あるのみ
  ショウリアル”

 佐野ROCK、ここに極まれリ、である。

 続く「黄金色の天使」。アルバムのラストトラックはこの曲しかあり得ない、というくらい最後に相応しいミドルテンポのフォークロックだ。あらゆるメロディラインがしっかりしていて、特に歌メロやハーモニーは歌謡曲にも通じるくらい分かりやすい。そして詩の内容も含めて、どこか郷愁を覚える。いや、歌われている内容は決してノスタルジアではなく、長く一緒にいた者同士の別れを瞬間を歌っているわけだが、メロディやアレンジ、コーラスなどが一体になることで、歌の中では描かれていない「過去」をも感じることができるわけで、これぞポップ音楽のマジックと言えるだろう。

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 こうして曲ごとに『Coyote』の世界を考察すると、そこには灰色の現実と、それに対峙するための意志が溢れているように思える。しかしその一方、アルバムの印象として「明るい」「清々しい」という意見が多く、その意見に対して異を唱える気になれないのが不思議な気がする。

 思うに、『Coyote』から滲み出てくる“儚さ”というのが、今の世を生きる我々にとって大切なものであり、実はポジティブなものなのかもしれない。儚さは不合理なものであり、あらゆる不合理さを克服するのが現代のムードである。しかし人の存在は儚いからこそ慈しむものなわけで、こういった心の機微がロックという音楽様式の中で、ここまで真摯に鳴らされた『Coyote』は、非常に日本的なアルバムであるし、やはり一家に一枚必要なアルバムだと、ここでまた強く言い切りたい。