荒地の中の慈愛というオアシス
空風(そらかぜ)

 
薄暗い空の下、海辺のテーブル。お皿に乗ったままの、手の付いていないナプキンとグラス。その向かいにはコヨーテ男がフォーク、ナイフをお皿に向けてはいるけれど、食事を楽しんでいるようには見えない。

 彼が気にする目線の先は、テーブルにつこうとしない黒づくめの男。食卓には関心がなさそうだ。誰かの歩く足取りを、少しの心配と共に、どこか祈りながら眺めているようだ。それは、現在起きている出来事だったり、何かに向けての想いであったり、未来であったりするのかもしれない。空は暗いが、足元が明るいことが救いだ。

 "慈愛"と表現するのがしっくりくるような言葉たち。こんなに人に親身に寄り添うことが出来るのは、客観的なスケッチや、技術だけではないだろう。そう思いたい。

 作者ご自身のこれまでの経験や閃き、人間味から滲み出た部分もちょこっと顔をのぞかせている気がしてならない。良い経験、そして辛い経験を経た者にしかわからない感覚が、慈愛に満ちた言葉たちを連れてこれるのかもしれないからだ。

 それに重なる、あつらえたようにしっくりくるメロディーが、言葉たちと共に心に沁み込む。彩る楽器には、新しく結成されたコヨーテバンドのサウンドを土台に、ある曲では珍しいフリューゲルホルンを用い、何とも言えない奥深い世界へと。

 またある曲ではオルガン、ストリングスが音の層に厚みを。また自らの手で奏でる、優しいそよ風のようなアコギや、深みを加える鍵盤は、立体構成のバランスが絶妙で、胸に迫る。

 そして、大井さんのドラム、片寄さんのコーラスを、このメンバーの中で聴けるのはとてもレアではないか。『君が気高い孤独なら』のBackground Vocalsの前に"Boy's"と"Girl's"を付け加えてあるのも心ニクい。

 個人的にこの『Coyote』アルバムを聴きまくっていた当時、これは自分の子供が独立する時に、そっと荷物の中に忍ばせたいアルバムだと思っていた。

 それは今も変わらない。例えば、一般的にどんなに幸せな世の中になっても、世界中の人々にとって、完全にひとり残らず同じような感覚で幸せを感じられる瞬間は、どれほど願っても、たぶん、ない。

 現実は、温室のようななま易しい環境ではないかもしれない。それをひとりで歩くには、あまりにも酷な瞬間があるかもしれない…。そんな時に子供の側に『Coyote』アルバムがあったら…と本気で思う。

 アルバムの帯に"21世紀の荒地を往く者たちに"とある。"往く者"のところに"Boys & Girls"とルビがある。これからオニモツになる一方で…とは言え、子供に世話になるつもりはないけれど。自分が子供に出来るのは、もうそのくらいしかないのかもしれない。
 
『Coyote』アルバムを、ありがとう。