2017年のBeat-itude -佐野元春、ニューヨークを往く

interview & text 青澤隆明

2017年4月、佐野元春がニューヨークを訪れた。スポークンワーズのライヴ・パフォーマンスを、ニューヨーク現在のオーディエンスに新たに問うために。
バンドは今回のための特別編成で、井上鑑、現地でベーシストのバキーティ・クマーロ、ドラムのロドニー・ハリス、フルートのアンダース・ボストロムと出会い、セントルイスから金子飛鳥が合流した。ken hiramaの映像は、4月4日、東京O-EASTでのパフォーマンスを経て、ニューヨーク仕様にアップデイト。アート・イヴェント『Not Yet Free』の一環として、ブロンクスに滞在してリハーサルを重ね、ヴィレッジのライヴ・ヴェニュー、ル・ポワソン・ルージュでのコンサートを成功させた。現地では、NHK BSプレミアム放映のドキュメンタリー「佐野元春ニューヨーク旅『Not Yet Free -何が俺たちを狂わせるのか』の撮影も併行して行われた。
帰国後、新作の準備に忙しい佐野元春に、ニューヨークでのプロセスと成果についてたずねた。

ハロー・ストレンジャー

――どのような心境で、ニューヨークと再会されましたか?

ニューヨークは僕にとって、とても親しみのある街のひとつです。毎回、この街に行くたびに、バーバラ・ルイスという歌手の『ハロー・ストレンジャー』という曲が、頭のなかで鳴りますね。

――1980年代にニューヨークで暮らしていた頃から、思い入れが深い曲だったのですか。

思い返してみれば、83年から84年、この街に暮らしながら、音楽活動をしました。仕事できただけではなく、そこには僕の個人的な生活もありました。ですので、この音楽を思い出すとともに、「また僕のことを迎えてくれてありがとう」という気持ちになります。

――ストレンジャーと聞くとすぐ、『ヴィジターズ』のことが思い浮かびます。

かつてアルバム『ヴィジターズ』というレコードをこの街で創りました。ニューヨークに対する自分は「訪問者である」という立場です。それはいつまでも変わりません。「訪問者」であるがゆえに、この街の様子を客観的に眺めることができるという良い点もあります。

なぜ、スポークンワーズなのか?

――ロック・アーティストとして、今回ニューヨークでパフォーマンスを行いましたが、なぜスポークンワーズという表現スタイルを徹底したのでしょう?

スポークンワーズというアートフォームは、日本ではまだまだ理解が深まりませんが、欧米、とくにニューヨークという都市では、一般的な表現形式です。パフォーマーがどの国籍に属していようと一定の理解が得られるはずだという確信のもと、それを試してみました。

――しかも徹底して、日本語でのリーディングということですから、佐野元春ポエトリーの音楽性が際立って伝わる挑戦になりますね。

僕は自分の母国の言葉に誇りをもっています。母国語でスポークンワーズすることが、自分にとってはとても大事です。原語の理解を超えて、他の文化圏の人に通じるものがあるはずだ、という確信がどこから生まれるかといえば、それは母国語に対する信頼にあると思います。

Not Yet Free-まだ自由じゃない

――今回、『Not Yet Free』というアート・イヴェントに参加したのは、どのようないきさつからでしたか?

僕の米国の友人が、このイヴェントをオーガナイズしていた。そのなかで僕にスポークンワーズ・パフォーマンスをやってくれないか、という依頼を受けて参加しました。

――非欧米系のアーティストが多数参加したイヴェントでした。

アフリカ、ブラジルという非欧米系のアーティストが多く集っていて、そこに自分も東洋のアーティストとして参加しました。とても刺激的でしたね。

――ブロンクスで、アンドリュー・フリードマン・ホームに一週間ほど滞在しつつ、ライヴ制作を行いましたが、創作環境はいかがでしたか?

大学の文化祭に参加しているような感じでしたね。僕は人のエネルギーを感じるのが好きなので、2017年、ブロンクスに生きている人たちに呼応するかたちで、詩作をしました。そのなかのひとつが「エコー」という詩です。アメリカの友人たちに、同時に日本の友人たちに宛てた、手紙のような一篇の詩を書きました。

LE POISSON ROUGE Photo from the officail Facebook

――ニューヨークでのパフォーマンスでは、7篇のスポークンワーズ作品を披露しました。選曲のポイントはどこにありましたか?

言葉の韻律を楽しんでもらいたい。日本語であっても、ビートというものはユニヴァーサルなものですから、それを感じてもらえる詩を優先しました。

――「Not Yet Free-まだ自由じゃない」という新作には、言葉と音楽の不思議な緊張感が漲っていました。

安定感が得られない変拍子を用い、その緊張感をリリックと響かせることで、良いスリルを生み出すことが可能なんです。僕はそこにチャレンジしたかった。異なる拍子がパラレルに進行しますので、演奏者は非常に困惑していましたね。しかし、優秀なミュージシャンばかりですから、強くコミットしてくれました。

――今回は初めて共演するミュージシャンも多かったですね。

もっとも注目すべきプレイヤーは、ベースのバキーティでした。ポール・サイモンの『グレイスランド』アルバムのベーシストで、南アフリカ出身の彼と演奏するのは楽しかった。井上鑑も金子飛鳥もそうですが、すぐれたプレイヤーが集まってくれた。彼らの演奏家としてのポテンシャルを十分に引き出すのが、僕のプロデューサーとしての使命ですから、即興性を重んじました。

ブロンクスでの日々

――リハーサルではさまざまなトラブルが起こるなか、短い時間で集中して、スポークンワーズの表現をまとめていきました。

ブロンクスでのリハーサルは、必ずしも順調とは言えなかった。次々に小さなトラブルが生まれ、即座に解決していかなければいけない、という忙しいリハーサルでしたね(笑)。しかし大事なのは、一生に一回ここに集まったミュージシャンが、ル・ポワソン・ルージュという素晴らしいライヴ・ヴェニューで最高の演奏をする。それが僕たちの目的ですから、どんな小さなトラブルがあろうと、僕は負けたりしませんでした。

――リハーサルの合間をぬって、ドキュメンタリーの撮影も行われていました。数日経って、佐野さんからドキュメンタリーのテーマについての提案をされましたね。

「自分はいまなぜここにいるのか? それを主軸にドキュメンタリーしたらどうでしょうか」と、僕からの提案をしました。1950年代のビート、60年代初期のアメリカン・フォークソング、80年代のヒップホップなど、ポップ音楽のなかに脈々と流れる、言葉と音楽によるレジスタンス。僕はそこに興味があったので、ジャーナリストや関係者たちにインタヴューをしました。非常に興味深い証言が得られましたね。

――ライヴ前日のリハーサルをまとめると、続けて新曲のプロダクションに入られました。その日の朝、書いたばかりの詩を音楽化していった。

ある意味、政治的に切迫した世界状況のなか、サウス・ブロンクスという街で自分らしくあるということをテーマに、なにか新しい詩表現に向かってみたいという渇望があったのだと思います。この街で感じてきた断片断片がひとつに集まってきた。「エコー」というこの詩は一気に書き上げました。

撮影:Jiro Yamazaki. Photo from the officail Facebook

新作が立ち上がる瞬間

――トラックを創り上げるまで、非常に短時間の作業でした。楽曲制作のプロセスを垣間見ることができたのは得難い体験でした。

重要なのはこの「エコー」という詩を書こうと思いついたときから、すべてが始まっているということです。言葉も楽器もできあがったものが、最初に僕のなかで立ち上がっていた。ひとつひとつ分解しながら、自分で弾いて、それを統合して、これが僕のなかで鳴っていたものだと提示する。全部自分でやるしかない、これが佐野元春のスポークンワーズ表現です。

――非常に素早く集中した制作作業を、そこにある機材で行っていかれた。

僕はアフリカのなにもないところに放り出されても、おんなじ作業をして、なにがしかの音楽を創るだろうと思います。そこに、なにかしらの音があれば、それを組み合わせ、自分の言葉にそれを与えていく。そして、言葉の音楽表現に向かって突っ走る。これが僕です。

――スポークンワーズの組み立てがはっきりみえたのは、非常に興味深いことでした。

創作のプロセスをあのように赤裸々に人々にみせるのは、僕にとって初めての経験でしたから、後で振り返ってみると、少し恥ずかしい気もします。まあ、やっているときは集中していたから、早くゴールに着きたいという一心ですね。

――非常にスリリングでした。いつもあんなに速いのですか?

のったときは速いですね。言葉と、ビートと、ハーモニー、和音。それぞれに境目がない、継ぎ目のない表現を目指す。それをなし得るのは、ひとりの人間でしかない。共同作業ではできません。スポークンワーズを創り上げるというのは非常に孤独な作業ですね。まさにこのスポークンワーズ表現こそ僕自身、というふうに言えるんじゃないかと思います。

――それがまた他者の身体を通じて、演奏として立ち上がってくる……。

そこからまた新しいストーリーが始まるんですね。音楽の素晴らしいところは、身体的にも思索的にも非常に個的な自分というところから再現された音楽にも関わらず、ライヴで解き放たれた瞬間、他の身体に接続していくことです。

――そして、オーディエンスの心身を伝っていく……。

なにかを感じてくれたオーディエンス、今回ル・ポワソン・ルージュでも大きな拍手が起こりましたが、そこに共感の伝達が生まれてくる。その先になにがひらかれるのか、ということについて、僕は37年間ずっと、さまざまな場において実験をくり返してきたと言えます。

ル・ポワソン・ルージュでのライヴ・パフォーマンス

――バキーティ・クマーロ、ロドニー・ハリス、アンダース・ボストロムという未知の身体と出会うことで、新たに生まれてきた即興的な要素について、お話しください。

みんな始まりはばらばらなんだけれど、最後にはひとつのところにたどり着くことになる。このプロセスがすごく楽しい。僕はなにも求めていないんです。そこで生まれてひとつのゴールに行き着く、それこそがアートという行為です。それで僕はもう充分。そこでなにが得られるかというのは、また次の課題ですね。

Photo from the officail Facebook

――今回は東京のライヴから映像が加わって、大きな役割を果たしました。映像作家ken hiramaとの出会いとコラボレーションはどのように起こったのですか。

ニューヨークの主催者が紹介してくれて、一回話をしたら、ビート・ジェネレーションに対する理解もあったし、彼といっしょにやってみたいとすぐに思いました。

――映像のイメージはどのようにまとめられていったのですか。

おおまかなディレクションは僕から与え、彼のなかでもこうやりたいというイメージがあり、それぞれのアイディアをマージした結果でした。

――詩の英訳を活用したのも、効果的でしたね。

欧米の人たちに僕のスポークンワーズ・パフォーマンスを楽しんでもらうということで、言葉の意味性を超えて、映像をつかうことがひとつの大事な要素でした。詩の内容の一部を英語に転換してみてもらう。その点で、今回のコラボレーションはうまくいったと思います。

――言葉と音楽、そして映像が、オーディエンスのイマジネーションを制約しないかたちで、繊細なバランスでフィットしていました。

どうもありがとう。そこがいちばん気をつけたところです。映像的なアイディアをふんだんに用いて、詩と音楽と響き合うようなまとめかたをしてみました。ken hiramaは最初から非常によい感覚をもっていたので、僕の要求もどんどん高いものになっていきました。しかし、彼はひとつひとつ答えてくれたので、結果として僕が望む以上のものになりました。

――彼の映像を伴うことで、表現としての立体的な奥行きが生まれました。

即興性を重んじたところが良かったと思います。僕のリーディング、僕らのバンドの音楽とジャムセッションするような感覚で、映像のほうもセッションをしてくれた。

――あっという間にコンサートの夜を迎えましたが、ル・ポワソン・ルージュというライヴ・ヴェニューの印象をお聞かせください。

ウエスト・ヴィレッジの一角にあるライヴ・ヴェニューで、非常に質は高かったですね。雰囲気もいいですし、スポークンワーズを披露するのに過不足感はなかったです。文化度の高いクラウドが集まっていることを、ステージに立ってすぐに感じました。

――ステージが進むにつれ、静かな高揚感が生まれていきましだか、オーディエンスの反応をどのように感じていましたか。

心地良いものでしたね。戸惑うものではなかったのは確かです。最後にはメンバー紹介を含めて、暖かい拍手をもらえたので良かったなと思います。すごく雰囲気はよく、彼らの反応のなかでステージを進めるのが、日本でやっているときよりも自然でした。

――ライヴを成功させて、楽屋に戻った瞬間に最初に感じたのはどういうことでしたか?

もっと「やったぜ!」みたいな達成感があるのかと思っていたら、まあ、ふつうだったですね(笑)。いつものライヴをここでもやりました、という感じです。

――思いがけない成果はありましたか?

ひとつは、すごく単純なことだけれど、言葉の壁はない、ということを実感しました。やっぱり、僕がやってきたのは、言葉じゃなくて音楽なんだな、ということですね。それと、映像を伴っての音楽表現というのは、やはり効果的だと思いました。

――ニューヨークに限らず、さまざまな都市部でのスポークンワーズの展開をこれからもますます望みたいです。

今回で自信がつきました。いろいろなところでやってみたいです。

再び路上で

――すべてのスケジュールをおえた翌朝、佐野さんは再びセント・マークス教会を訪ねましたね。そのとき、どんなことを思いましたか?

アレン・ギンズバーグが亡くなってちょうど20周年、あれも四月の出来事だったかな。大きなマスターというか、心の師がひとり亡くなったようなさびしい気持ちになりました。そのときから、ちょうど20年を迎えた春に、自分が米国で、『Not Yet Free』という課題のもと、パフォーマンスを行うことはなんという偶然だろう。すべては目にみえないところで繋がっているのかな、とふと思いました。

――ニューヨークでの日々はたちまちに過ぎましたが、ひとことで言うと、どんなことを実感されましたか。

世の中には、音楽や映画や詩なんていらないっていうひともいる。でも、音楽や映画や詩がなかったら、ひとはなんのために生きているのか、わからなくなるだろうと思います。