「月と専制君主」クロスレビュー

「君」に歌いかけ、「僕」や「私」の存在を問いかける。 天辰保文

『月と専制君主』は、佐野元春が初めて試みたセルフ・カヴァー・アルバムだ。デビュー30周年ということで完成させたらしいが、その記念としてセルフ・カヴァーを選んだことに対して意外と言えば意外な気もするし、彼らしいと思えば彼らしいと言えなくもない。ザ・ハートランドとザ・ホーボー・キング・バンドの仲間たちと一緒に、その歳月を確かめ、ここに至る喜びを分かち合うにはこれほど最適な方法はないだろうからだ。

 新しく命が吹き込まれた歌の数々を聴きながら最初に気づいたのは、このアルバムに散りばめられた「君」という言葉だった。全10曲中9曲に「君」がいて、「君がいなければ」のようにタイトルになっているものさえある。もっとも、このアルバムに関する彼の発言の中には、「君の不在」をテーマにしたというのもあって、となるとこれは意図したことかも知れないなあと思えたりもするし、それどころか考えてみれば、佐野元春という人は、デビュー当初からずっと「君」に歌いかけてきた人だった。

「君」に歌いかけ、「君」の存在を意識してもらうには、「僕」に対しても正直に、真摯に向き合わなければならない。そうすることによって初めて歌い手と聴き手との民主的な関係が成立するし、聴き手に「僕」や「私」の存在を問いかけることができる。そのことを彼はずっと貫いてきた人だ。だからこそ、彼は、ここまで信頼されてきた。そして、それこそが、彼がポップ・ミュージックから学んだ最も大切なことだったのかもしれない。

 その昔、ビートルズの成功の一つは、「僕」が「君」に歌いかけることを意識していたからだというのは幾度となく指摘されてきたことだ。なにしろ、デビュー曲からして「ラヴ・ミー・ドゥ(僕を愛してくれよ)」だったし、どれほど「君」と「僕」が曲名に使われていたか。「プリーズ・プリーズ・ミー」、「アスク・ミー・ホワイ」、「P.S.アイ・ラヴ・ユー」等々。「シー・ラヴズ・ユー」のように、ふられたと思ってる「君」にそうでもないんだよ、と第三者の思いを運ぶような歌さえあったくらいだ。

 それが、彼らの意図だったかどうかは別としても、少なくとも、不特定のどうでもいい相手に対して漠然とどうでもいいことを歌い続けたわけではない。「君」にあたるぼくら一人一人に、いつも歌いかけてくれていた。下らない大人にはなるなよ、つまらない常識なんてものに縛られるのはやめろよ、と。大人たちが作った身勝手な価値観から解放され、新しい扉を開けていくための魔法の鍵を、そうやって彼らは差し出してくれたのだ。

 ビートルズばかりではない。ローリング・ストーンズだって、「君が欲しいと思ったときに必ずしも手に入るとは限らない、でもやってみる価値はある」と歌いかけ、「君の図々しさにもほどがあるよ、僕を友だち呼ばわりするなんて」とボブ・ディランは歌った。そして、彼はこうもけしかけた。「どんな気分だい、家に帰るあてもなく、一人ぼっちでいるって」と。「君の瞳の中をのぞき込むと、そこにはぼくが知っている人は誰もいない。こんな孤独って、なんてむなしい発見なんだろう」と歌ったのは、ジャクソン・ブラウンだ。

 こうやって、心動かされる歌にはいろんな「君」がいて、「君」を歌うことで「僕」や「私」の存在を問いかけるものばかりだった。そして、佐野元春はここで改めて、「いつだって君のために闘うよ」と歌い、「君だけを固く抱きしめていたい」と歌う。「世界の果てまで君を連れて行きたい」と歌い、「いつか君と少しだけ踊りたい」とも、「いつか君と少しだけ眠りたい」とも歌う。そうやって、「僕」や「私」の存在を問いかけてくる。

 それにしても、ここでの彼の歌声の柔らかさはなんだろう、と思う。ポップ・ミュージックに対する、優れた先達に対するありったけの感謝や敬意が、歌を紡ぐ糸の一部であることは間違いのないところだが、それにしても、気高くて、厳かなまでのこの響きはいったい何処からくるのだろうと思う。

 気取らず、偉ぶらず、自慢げなところやお仕着せがましいところは一切ない。それほどまでに自然で、しかも、ちゃんと意志が込められた歌声ーー。これが、30年という歳月によってもたらされる成熟だとかであれば、なんとも喜ばしいことかと思う。歌たちは、聴き手を置き去りにすることなく並走し、少し疲れたときには、ちゃんと立ち止まってくれる。こちらの呼吸が整うのを待って、再び、そこから一緒に走りはじめる。そのせいだろうか、聴くたびに、春が近づいてくるような気がして、今日もまたぼくはそれを繰り返す。