「月と専制君主」クロスレビュー

「月と専制君主」と音楽の魔力 片寄明人

 まず初めに…。僕はこのアルバム「月と専制君主」を佐野元春の全アルバムの中でも間違いなく3本指に入るほどに素晴らしい作品だと思っている。
(あくまで個人的な思い入れだが、ちなみにもう2作挙げるとすれば「SOMEDAY」と「VISITORS」。次いで「COYOTE」、「THE SUN」。そして…キリがない!)

 セルフ・カヴァーという試みはミュージシャンにとって魅力的であると同時にとても難しい題材だ。創り手の視点から見れば、自分の過去の作品を振り返って「あぁ、今ならこうするのに…」と思うことは多々あると思うが、その結果がオリジナル・ヴァージョンを愛するリスナーの想いと噛み合うことはなかなか少ない。大抵は「気持ちは分かるけど、やっぱりオリジナルにはかなわないね。」の一言でニュー・ヴァージョンが忘れ去られてしまうことも多い。

 そして巷に氾濫する凡百なセルフ・カヴァー・アルバムが往々にしてサウンドだけを安易に時代や流行に迎合してアップデートさせた、退屈な仕上がりになっているものが多いことも事実だと思う。
しかしこの「月と専制君主」は違った。なぜセルフ・カヴァーという難題に挑みながらも、オリジナル・アルバムをも凌駕し、まさにいま創られるべき稀有な作品と仕上がったのだろう。
その理由について、未熟者ながら僕なりに考察をしてみようと思う。

 まず第一に挙げたいのがこのアルバムの持つ「音質」である。
高音域よりも中低音域のふくよかさに重点を置き、良いステレオセットで聴けば、各プレイヤーの立ち位置からスタジオの広さまで想像出来そうな程に奥行きのあるサウンド、これはまるで上質なアナログ・レコードを聴いているような体験を僕に与えてくれた。
もしかしたら、このアルバムを初めてCDプレイヤーにかけたとき「地味な音だ」と思った人もいるのではないだろうか。それは決して間違った意見ではないと思う。ここ数年メインストリームに溢れる音楽の多くは、サウンドの奥行きなどとは無縁な初聴きのインパクトだけを求め、まるで刺激剤のような音圧で派手さを演出しているものがほとんどだからである。
その結果、若いリスナーたちの中に「音楽なんて数回聴いたら飽きてしまうもの」であり、別に音質になんて興味も無いからMP3で充分だし、飽きたらハードディスクから削除、またどこかから新しい音源を拾えばいいや、という人が少なからず増えてきているのかもしれない。
しかしそんな若者たちを非難するのは、もちろん的外れだ。言うなればそれは牛肉が大好物!と言いながら、上質なステーキを食べたことがなく、ファストフードのハンバーガーしか知らないようなものだと思うからだ。
そんな憂うべき時代に佐野元春がリリースした「月と専制君主」。
このアルバムが持つサウンドこそ、僕にとってはこれぞ聴けば聴くほどに味わい深くなる極上のステーキと言えるものであった。
一聴して僕が想い浮かべたのは、近年アメリカで最も趣味の良い仕事をしているミュージシャン・プロデューサーのひとり、ジョー・ヘンリーの一連の作品が持っている音の形との共通点である。
そのロウ(生)な手触り、そして決して綺麗にサウンドを均すことを目的にしていない、個々のプレイヤーの機敏までつかみ取れそうな程に躍動する音場、そのうえでさらにエッジィな切れ味までも仕掛けてくるセンスに共通項を感じたのだ。
そんな僕の感想を佐野さんに伝えたところ、なんと今作のマスタリングはジョー・ヘンリーと組むことが多いケヴィン・ラーセンに依頼したと言うではないか、なるほどと自分の中でも合点がいった次第である。
この決して時が流れても飽きることがないであろうサウンドこそが「月と専制君主」を名盤にした重要な点でもあり、僕にとってこの音は決して「地味」ではない。それどころか最高に「滋味」溢れる音だと言えるものだ。

 少々話しは脱線してしまうかもしれないが、ここで語りたいエピソードが僕にはある。昨年、突然ある少年から僕の自宅を訪ねたいとメールが来た。
彼は中学生のザ・ビートルズ・ファンであり、2009年にザ・ビートルズの全てのカタログがリマスター再発された際に、アビーロードにてそれらのリマスターを手がけたエンジニア、スティーブ・ルークと僕が以前仕事をしたときの体験をトークショーで話して欲しいとEMIから依頼を受け、訪れた会場で出逢った少年だった。
彼はメールで「僕は夏休みの自由課題としてザ・ビートルズを取り上げることにしました。そのために当時のオリジナル・アナログ・レコードの音を聴いてみたい。片寄さんはオリジナル盤で全てのモノラル・レコードを持っていると言っていたが、それを聴かせてはもらえないだろうか」と頼んできたのだ。
通常は面識のない人を自宅に招くようなことはしないのだが、中学生ということもあったし、たまたま空いている時間もあったので、僕は快諾して、彼を自宅に呼ぶことにした。そして約束の日に彼は僕の家にやってきた。
まずは世間話をしていく中で最も驚かされたのが、クラスでも1番の音楽好きとして有名で、こんなにも熱意を持って過去の音楽を愛しているにも関わらず、彼が自分ではCDをほとんど所有していないという事実だった。
もちろん中学生であるからお小遣いにも限りがあるのだろう。彼が主に利用するのはレンタルCD店であり、そこでリッピングした音源を一日中夢中になって聴いているというのだ。
「ザ・ビートルズの真価はモノラルで聴いてこそ」という意見を耳にした彼は自分で音源編集ソフトを使い、レンタルしたステレオCDの音を疑似モノラルにするという手間のかかる作業までしていた。しかしそれで聴いてもモノラルの良さが理解できないから、ぜひ当時の英オリジナル・モノラル盤の音を聴かせて欲しいと懇願してきたのだ。
僕は彼をステレオセットの正面に座らせ、ザ・ビートルズの英オリジナル・モノラル盤をすべて棚から下ろして、まずは「Please Please Me」をモノラル盤専用のターンテーブルに乗せ、針を落とした。
その瞬間の彼の反応は実に興味深いものだった。演奏が始まると途端にそのCDを凌駕する暴力的な迫力に驚いたのか、一瞬身を反らすと同時に大きく目を見開き「CDと全然違う!」と叫んだ。そしてその後に続いた言葉に僕はハッとさせられた。「あっ、リンゴが一番後にいて、ポールが前だ! メンバーの立ってる場所が見える!」そう彼はいわゆる音の定位だけではない、音場の奥行きについて興奮して話し出したのだ。
それは最近の流行音楽の多くやMP3などの圧縮音源で失われつつある大切な音楽的要素のひとつだった。
彼はアナログ・レコードの持つ豊潤な音楽情報量に驚きながらも、それを本当に心から楽しんでいた。そして最後には「こんなに楽しい経験が出来るとは思ってもいませんでした。僕もレコード・プレイヤーを買ってみようと思います」と言い残して帰路についていったのだった。
その後、僕はその少年と連絡を取ってはいないが、きっと彼の音楽との付き合い方には多少なりとも変化が生じたのではないかと思っている。
彼は極上のステーキの味を知ったのだ。もしかするともう100円ハンバーガーでは満足出来なくなっているかもしれない。

 僕はこの経験を通して、大きな学びを得た。
子供たちの耳をなめてはいけないのだ。そして僕ら創り手はそんな新しい聴き手たちに何を届けるつもりなのか、常に自問する必要がある、ということだ。
少年時代、友達とステレオの前に正座して音楽を夢中になって聴いていたというと、若いミュージシャンには時折笑われてしまうこともあるが、僕は今でも音楽にはそれぐらいの吸引力があることを馬鹿みたいに信じているのである。

 アナログ・レコードが持っていた、そんな魔力を現代に蘇らせることは出来ないのだろうか? 僕はこの「月と専制君主」というアルバムこそが現代のデジタル・レコーディングの世界でもその魔力に肉迫することが出来るという好例だと思う。
その実現には関わるスタッフがアナログの質感を熟知していることが必要不可欠であるが、佐野さん自身がそれを知り尽くしているのはもちろんのこと、ミックスを渡辺省二郎氏、マスタリングをケヴィン・ラーセン氏という日米の最高峰エンジニア・コンビに依頼した、その人選も実に的確で素晴らしいセンスである。
最近の若いエンジニアの中にはアナログの良質な音を知るどころか、生音の録り方すらおぼつかない者も多い。その一方で、若いながらも質の高い過去の音源を聴き込み、デジタル技術の中でその良さを再現しようと果敢に挑戦しているエンジニアもいる。
僕は後者のような志しを持った若手エンジニアと共に仕事がしたい。
ミュージシャンも同じである。僕はプロデューサーとして関わったミュージシャンを機会があれば自宅に招き、僕が思うアナログ・レコードの良い音を聴いてもらうように努めている。そしてその経験が彼らを音楽家として大きく成長させることを間近で見て実感しているのだ。
佐野元春という、日本のメジャーフィールドで長年活躍しているミュージシャンがこんなにも音楽的志の高いアルバムを新譜としてリリースしてくれたという事実。それを僕は同じ音楽の創り手として、なにより嬉しく、そして心強く思うのだ。

 そして次に語るべきはこのアルバムが持っている独特のムードについてだ。
全編に通底する抑制された、クールかつ生々しいムード。そのムードを演出するのは、アコースティック・ギターやウッド・ベース、エレクトリック・ピアノの名器ウーリッツアーなど、デジタルでのシミュレーションではなく、本物の生楽器群だ。
だからといって、いわゆるアンプラグド・アルバムにありがちな「ユルさ」とはまったく無縁なところも魅力だ。そう、あくまでこれは本物のロック・アルバムなのだ。しかも年齢を重ねた大人が聴くにも相応しい、これぞまさに本当の意味でのアダルト・オリエンテッド・ロック(AOR)である。

 つい忘れてしまいがちだが、ロックという音楽はまだまだ歴史が浅いジャンルだと言えると思う。1950年代半ばに若者のために生まれたロックンロールだが、今では子供達のためだけのものではないことは言うまでもないだろう。
1968年生まれの僕が少年時代には、まだロックは若者のためのもので、大人になったら卒業し、演歌を聴くようになるものだ、などという意見がまことしやかに信じられていたものだが、今となっては笑い話としか言いようがない。
ロックンロールの偉人たちが年をとり次々に天国へ旅立ち始めたのも2000年代に入ってから以降のことだ。
つまりロックンロールと成熟した大人との関係はまだまだ進化の途中で、何の参照すべき前例もない未知のものだと思うのだ。
しかしながらそんなロックで育った大人たちが聴くに相応しい音楽が、きちんと市場に提供できているのか、と考えると決して状況は良いとは思えない。
もちろん高い志を持ち活動している40代以上のミュージシャンはたくさんいるのだが、音楽業界もメディアも彼らの魅力には気がついていないようだ。
佐野元春の様に50代を過ぎても、その志を高く持ったまま、今もメジャーの最前線で戦い続けているミュージシャンはとても少ない。
そしてそんな佐野元春のもとに集い、今作でも絶妙なプレイを聴かせてくれる、日本を代表する最高のロック・ミュージシャンたちもそんな稀有な存在の音楽家達だ。
さらに彼らは同世代に向けるだけでなく、同時にいつの時代にも存在する、佐野元春を発見した若い世代のリスナーたちのためにも、最上質のステーキ肉といえる音楽を提供してくれる。
それは実に素晴らしい文化事業とも言えるものであり、もっともっと高く評価されてしかるべき行動だ。
この「月と専制君主」に収められた珠玉の10曲こそ、どこを切っても最上の音楽センスで満ちあふれている、東京で生まれた、世界に誇るべき大人のためのロック・アルバムなのだ。

 どの曲もオリジナルとは違った新しい魅力を携えているのだが、個人的に最も心を打たれたのは4曲目の「クエスチョンズ」から8曲目「日曜の朝の憂鬱」までの流れだ。実をいうとこの5曲の中で僕がオリジナル・ヴァージョンに夢中になった曲は「日曜の朝の憂鬱」だけで、それ以外の4曲は僕にとって発表当時はそんなに印象深い曲ではなかったことを告白したい。
それが「えっ!こんなに素晴らしい曲だったなんて…」と思わずもう一度オリジナルを聴き返したくなってしまうほどに生まれ変わっているのだ。
佐野元春のセルフ・カヴァー・アルバムと聞いて「SOMEDAY」や「ガラスのジェネレーション」などの代表曲を期待した人も少なくなかったと思うし、発表された収録曲を見て「渋い選曲だな…」と僕自身も思ってしまったのも確かだが、それがあまりに浅はかな考えだったことを思い知らされた。

「日曜の朝の憂鬱」の後半、「世界はこのまま何も変わらない 君がいなければ」と歌い終わった後に洗練の極みともいえる粋な転調が繰り返される度に、心の景色が変わり、僕のハートはフワッと舞い上がってしまう、そして少しだけ涙が出そうになる。
艶やかなサックスの調べに、少年の頃、背伸びをして名曲「ハートビート」を聴いていたあの頃の気持ちが一瞬胸をよぎる。
そう、僕にとってこのアルバムのもう一つの魅力は、佐野元春の持つセンチメンタリズムが甘さに流されることなく、ロックに溶け込んだ形で理想的に表現されていることだ。
まるでテーマのようにいくつかの曲で繰り返し語られる「君の不在」。
どの曲でも主人公は傷ついた心を抱え、それでも愛を頼りながら、なんとかこの荒野のような社会で生きている。
深い悲しみと絶望、それでも生き抜いていく前向きな決意とが複雑に同居した、だからこそリアルな語り口と、この硬質なセンチメンタリズム溢れるサウンドは実に絶妙なマッチングである。その結果、心にリアルに染みこんでくるのだ。

 僕は佐野元春のセンチメンタルなメロディーや言葉を愛している。
佐野さんと話していると、彼はそんな自分のセンチメンタルな一面をあまり評価していないような気がすることもあるのだが、僕は事あるごとに「佐野さんの泣けそうにメロウな曲が聴きたい」と臆面もなくリクエストしてきたものだった。「COYOTE」セッションの初期にもギルバート・オサリバンを彷彿とさせる涙ものの名曲があったのだが、結局その曲はアルバムに収録されることなく、今もファクトリーのどこかで眠ったままだ。
しかしこの「月と専制君主」はそんな想いのすべてに、それも僕が思ってもいなかったスタイルで応えてくれた作品だった。

 僕は13歳で好きになった佐野元春の新譜を、こうして42歳の今もじっくりと噛みしめるように聴くことが出来ることを、そしてそれに感動できることに心から感謝している。

 佐野元春がいてくれてよかった。