「月と専制君主」クロスレビュー

歌はそこにある。時を超えて 萩原健太

 もう10年も前の話になる。911、同時多発テロの直後のことだ。毎年恒例、ニール・ヤングが主宰するブリッジ・ベネフィット・コンサートを見るためにロサンゼルスへと赴いた能地祐子が、帰国後、興味深いエピソードを教えてくれた。演奏の合間にニール・ヤングがMCでこんなことを語ったらしい。「あの衝撃の瞬間以来、どんな歌を演奏すればいいのかわからなくなってしまった。どの曲の歌詞も以前とは違う響きをたたえてしまう…」と。そう観客に語りかけてから、ニール・ヤングはおもむろにビートルズの「愛こそはすべて」をカヴァーして聞かせたという。

 歌の意味が変わる。

 当時も、なるほどな、とは思った。さすがニール・ヤングの発言だ、と。でも、今はもっと切実にわかる。身体で理解できる。あの震災と忌まわしい原発事故のあと、誰もが多かれ少なかれ不安を抱きながら日々を過ごすしかないこの日本で、ぼくたちもまたそんな事実を思い知らされている。平時だったら、そのストレートすぎる友愛のメッセージが少々うざったくすら思えたかもしれないサイモン&ガーファンクルの「明日に架ける橋」や、ジェームス・テイラーの「君の友だち」のような曲が、今また無垢な、かけがえのない輝きを放つ存在としてぼくたちの心を慰め、癒やしてくれている。普段あまり気にとめることもなく、昔の、古くさい楽曲のひとつとしてついつい聞き流しがちだった、たとえば童謡の「ふるさと」や、アニメ主題歌の「アンパンマンのテーマ」、坂本九の「上を向いて歩こう」「見上げてごらん夜の星を」などが、悲しみを超えて、ゆっくりとでもいいからもう一度前に進んでいこうというある種の決意をたたえたメッセージ・ソングとしてぼくたちを励ましてくれたりもしている。

 今回の被災を受けていち早く支援を表明する新曲を用意した音楽家も少なくなかった。それらの曲も、もちろん人々を癒やし、励ましてくれているわけだが。それ以上に、特に今回の悲劇をふまえて作られたわけではない、はるか昔に生み落とされた歌詞と旋律が、これまで気づかなかった別の表情をたたえながら今、聞く者の心をより深く、優しく包み込んでくれているという事実にこそ、ぼくの胸はときめく。

 歌ってすごいな。音楽ってすごいな。そんなことを改めて思い知らされる。繰り返しになるが、何よりもすごいのは、歌はそのままだということだ。歌は生まれたときのまま、けっして変わることなくそこに在り続けている。作り手が意識的であるか無意識のうちにかはともあれ、彼らがその曲にあらかじめ込めた幾重もの“意味”をすべて等距離にたたえながら、ただひたすら佇んでいるだけ。にもかかわらず、聞く者の置かれた状況次第で、その歌を取り巻く空気感が、描かれた情景が、託された物語が、がらりと変わって届くのだ。これが歌というものの底力なんだろうな、と思う。

 佐野元春がデビュー30周年を機に、自らの過去のレパートリーを新たなアレンジのもと構築し直したセルフ・カヴァー・アルバム『月と専制君主』が放つ、ある種の“揺るぎなさ”にも、ぼくは同じ根っこを感じるのだ。かつて佐野元春はこれらの楽曲を、いつか歌い直す日がやってくるなどとはかけらも思わず、その瞬間瞬間の思いの記録として紡ぎ上げたに違いない。が、ソングライターとしての佐野元春自身の思いすら超えた地点で、歌は命を与えられ、独自の存在感を主張しながら生き続けてきた。そして今回、佐野元春はタイムカプセルを開けるように、かつての自作曲たちと新たな出会いを果たした。生まれたときの姿のまま時を超えて佇み続ける歌たちから10曲をピックアップして、また新たな服と居場所を作者自らが用意してみせた。

 このアルバムに初めて接したとき、ふと思い出したコンサートがある。1985年6月15日、国際青年年に合わせて東京・千駄ヶ谷の国立競技場で開催されたビッグ・イベント『オール・トゥゲザー・ナウ』だ。多数の出演者に交じってコンサート終盤、ステージに姿を現した佐野元春があのとき披露した「ヤングブラッズ」が今もぼくは忘れられない。

 「ヤングブラッズ」という曲は、その年の初頭にリリースされた直後からスタイル・カウンシルの楽曲との相似性(主にアレンジ面での話だが)について論争が巻き起こるなど、佐野元春にとっても、ファンにとっても少々デリケートな存在だった気がする。国際青年年のテーマ・ソングとして注目を集め、チャートでもトップ10入りを果たすなど大ヒットとなったことも騒ぎを大きくしたきらいがあった。が、あの日、国立競技場で演奏された「ヤングブラッズ」はそんなややこしい気分を一気に払拭してくれた。ずいぶんと昔の話なので記憶も曖昧だが、確かピアノだけをバックに歌われていたと思う。佐野元春自身が吹くハーモニカもフィーチャーされていたかもしれない。ともあれ、アレンジが一新されたことで、スタイル・カウンシルとの相似性は吹き飛んだ。ぎりぎりのところでシャウトを繰り出す佐野元春の切実な歌声も素晴らしかった。歌詞の力強さとメロディの繊細さがひときわ際立つパフォーマンスだった。

 ご存じの通り、佐野元春は常に曲のサウンドなりスタイルなり、時にはメロディさえをも時代とともに変革/成長させながらライヴ・パフォーマンスを展開してきた。もちろん中には、オリジナル・レコーディング・ヴァージョンのアレンジのままのほうがよかったと思える曲も少なからずあった。それは事実。が、これはこれで疑いなく現在の佐野元春を表わすサウンドなのだろうと思わせてくれる強い意志がいつもそこにはあった。昔の曲も今の曲も、すべてを同列に、今の時代の歌声として聞かせることこそがライヴ・パフォーマーとしての彼の使命であるかのように。

 そんな中で、特に85年、国立競技場での「ヤングブラッズ」はぼくの胸を鋭く射貫くものだった。佐野元春の意志に圧倒された。と同時に、「ヤングブラッズ」という楽曲そのものがたたえる強さに改めて気づかされた瞬間でもあった。まあ、これはこの曲が生まれて間もない時期の出来事だっただけに、意味合いが多少違ってはいるのだけれど。いずれにせよ、アルバム『月と専制君主』を聞いたとき、ぼくの脳裏にはあの国立競技場での感触が甦ってきたのだった。

 『月と専制君主』でも「ヤングブラッズ」が取り上げられている。躍動的なラテン・ロックにお色直ししての再登場だ。他にもホーランド=ドジャー=ホーランド・サウンドへと変身した「ジュジュ」をはじめ、フォーキーな感触を付加された「夏草の誘い」、ダン・ヒックスふうのアコースティック・グルーヴが心地よい「C'mon」、ワルツに変身した「レインガール」など、初めてこのアルバムに接したときは、主にサウンド面でのアイデアに耳が奪われた。バックを固める腕ききミュージシャンたちがさりげなく繰り出す小憎らしいワザの数々も含め、その豊潤な音像に胸を高鳴らせたものだ。

 が、悪夢のような3月11日を間に挟んで改めてアルバムに接し直してみたとき、ぼくの耳を強く惹きつけたのは、むしろ年齢を重ね円熟味を増した佐野元春の現在の歌声で淡々と綴られる“言葉”の魅力のほうだった。そこに潜む物語の深さだった。「ヤングブラッズ」で歌われる“ひとりだけの夜にさよなら”というひとことにふっと心が軽くなったりもした。“レッツ・ステイ・トゥゲザー”という力強く確かなフレーズに素直にときめいた。「C'mon」の“あぁ、この世界に今日も陽は昇るんだろう/風にタンポポが揺れている”という、どこか斜に構えた諦観に貫かれた描写が、それまでとはまるで違う、さりげなく希望を抱かせる表現として伝わってきた。涙がこみ上げそうになった。アルバム・タイトル曲の“川は流れ/すべてはくり返す/君は君/かけがえなく”という一節も同様。かつてとは違う静かな衝撃をぼくの胸に伝えてくれた。大切なものを手にした喜びと、それを失う空しさとが交錯する「ジュジュ」「日曜の朝の憂鬱」「君がいなければ」なども、これまで以上の吸引力をもって心にしみ入ってきた。今この時期に、『月と専制君主』というアルバムが存在することが何やら運命的なものに思えてきたりもする。

 もちろん佐野元春自身はそんな聞かれ方、いっさい想定していなかったはずだ。が、少々乱暴に言い切れば、彼の意図すらもはやどうでもいい。今、ぼくのもとに『月と専制君主』というアルバムがあって。10の物語があって。新たに書き下ろされたものではないにもかかわらず、演者たちの的確なパフォーマンスによって今の時代にきっちりと有機的に響いていて。ぼくの心を確実に揺らしてくれていて…。それだけでOK。

 機会があるごとに発言させてもらっていることの繰り返しになるのだけれど。音楽ジャーナリズムの世界には“常に新しくあらねばいけない”という価値観が強迫観念的にある。もちろん、それも一面の真理。ポップ音楽の魅力は、基本的に作り捨て/聞き捨てなのだから。が、作り捨て/聞き捨てを基本にスピーディに時代を駆け抜ける数多のロック/ポップスの中に、ごくまれに鋭く永遠の真実を射貫くメロディなり歌詞なりパフォーマンスなりが潜んでいて。そんな一瞬のきらめきが、やがて時を超え“永遠”へと昇華する。こうした在り方もまたポップ音楽の魅力だ。時代を超えて生き残る音楽の底力をなめちゃいけない。

 そんなふうにして、歌は生き続けていくのだ。時を超えて。

2011年5月 萩原健太
Kenta Hagiwara