ハートランドからの手紙#105
掲載時:97年7月
掲載場所:Moto's Web Server
掲載タイトル:アルバム 'THE BARN' について個人的なメモ

「アルバム 'THE BARN' について個人的なメモ」

もう落ち着いたので、このことについて書き留めておいてと思う。
「THE BARN」のための曲を書いていた。97年の始め頃から、約半年間だった。その間、妹が不慮の事故で亡くなった。僕のただひとりの血を分けた兄妹だった。32才だった。あまりに若すぎた。初夏、警察から僕の元に連絡があり遺体と直面した。面影はなかった。落ち着いてはいたが頭が混乱していた。核家族化の例に漏れず、僕らは離れて暮らしていた。僕の家族は結束の固い家族ではなかった。両親ともここ数年間に亡くし、妹を亡くし、これで僕はひとりとなった。

妹とはいい仲だとはいえなかったので、彼女を無くしたとき、悔いた。彼女は常に人生に否定的で、どこか痛々しかった。僕が彼女のことを想うとき、それは、彼女がまだ柔らかく、まだあどけなく、美しく無垢な笑いに包まれていた頃の彼女だった。成長してから後、両親との折り合いがつかず、彼女は逃げた。仕事を持ち、友人を持ち、どこにでもあるありふれた営みを繰り返した。そして年月が過ぎ、生を受けて32年目に、その人生を終えた。

彼女にとって、人生とは苦痛だったに違いない。僕は何度かそうではないことを伝えようとしたが、うまくいかなかった。一方、そういう自分も、人生が苦痛ではないとは断言しない。強がる必要はないかもしれない。

短い間に家族を失くし、痛ましかった妹の死を感受すると、僕の中の何かが壊れたような気がした。冷静を装うほど自分がわからなくなった。苦痛を取り除いてくれるものがあれば、何でも試したかった。僕はそれまでとはわざと違う所作の中に身を置いたりもしてみた。

「THE BARN」アルバムに収録した二曲。「ドクター」と、「どこにでもいる娘」は妹の死に関連している。「僕は君のドクターなのだから痛みを取りたいのならいつでもおいで。」とは、妹の希求でもあったし、同時に現在の僕の希求でもある。「どこにでもいる娘」は、結果、妹に捧げる曲となった。

前作、「スイート16」、「サークル」、「フルーツ」の三作品が、両親の死を受けて、多少感傷的、明確ではないにしても、無意識に心の暗部が露呈してしまったことに嫌気を持った僕は、今回の「ザ・バーン」アルバムではそうしたことのないよう、気をつけなければならなかった。新しいミュージシャン仲間となったザ・ホーボーキング・バンドの面々が、そうした僕を救ってくれた。

妹の葬儀を終えた後、僕とバンドは、アメリカ東部、伝説の地、ウッドストックに向かった。三週間、僕はレコーディングに没頭した。休息の時には、ウッドストックの自然が僕を抱いてくれた。森の精霊のおかげで僕は泣かずにすんだ。森を愛した米国詩人、ソローやホイットマンの言葉の断片が、たびあるごとに僕をまともでいさせてくれた。つかのまの休日。ロビーロバートソンの邸宅にある野外プールの端に腰かけて、僕は夏の陽ざしを受けてきらきらと輝く水面を見ていた。野に咲くクイーンレースの花が美しく風にそよいでいた。大きな雲が流れていた。プールで、僕はほんとうにくたびれるまで泳いだ。身体は、まるで水に溶けていってしまえ、と願ってみた。僕の97年の夏はウッドストックの森にあった。癒しは自らのなかにあった。一瞬ではあったのかもしれないが、人生とは、そう苦痛なものではないと思った。そのことを、妹が生きているうちに伝えきれなかったことだけが、悲しかった。

レコーディングは無事終了し、良い作品となった。バンドのメンバーもみな笑っていた。プロデューサーを引き受けてくれたジョン・サイモンは、プロデューサーとしてだけではなく、ウッドストック・コミュニティーの良きホストとしても活躍してくれた。レコーディングの最終日。ジョンと僕らはボーイスカウトのようにたき火を囲んだ。焼きマシュマロに舌づつみをうちながら、話は続き、夜は更けた。

「さよなら」を言う前に、ジョンは僕をつかまえてこう言った。「またウッドストックに戻るのはいつかな?」
そうだな。その日が来ることを夢にみるのがいいな、と思いつつ、「いつかまた必ず。」と僕は答えた。


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