「僕はため息と笑顔と音楽で武装する。決して後ずさりしない。そして孤立する」
1989年6月、佐野は「ナポレオンフィッシュ・ツアー」のパンフレットに寄せた「ハートランドからの手紙#33」にこう記す。アルバム『ナポレオンフィッシュと泳ぐ日』と、そこから始まるツアーが並々ならぬ決意に満ちていることが伝わる一節だ。
この前年、佐野はライヴ・アルバム『Heartland』をリリースした。チャート1位、40万枚のセールスを記録したこの作品は「日本ロック界における意義深い収穫」と高く評価された。'80年代を疾走しながら、数々のフォロワーを生み出す強固なスタイルを確立したひとつの「結実」とも言えよう。
しかし佐野はそこに止まらず、ますますアグレッシヴな活動を見せることになる。やはり1988年8月、担当していたFM番組の内容に政治的な圧力がかかったことをきっかけに、原発問題を扱うジャーナリズムの姿勢を批判したシングル「警告どおり 計画どおり」を発表。当時の音楽シーンにとっては不穏で異質なタイトル・チューンをチャート9位に叩き込んだ。
商業主義化する音楽業界はこうした動向に少なからず脅威を感じた。しかし時代は折しも、インディーズ・レーベルの興隆、アンダーグラウンドなダンス・ミュージックの到来に、若々しい芽を育んでいた。佐野が一貫して投じてきた“個の意識”が彼らに勇気を与えたことは、その後の新世代ポップスの出現を見ても明らかだろう。
1989年とは、社会の動静にさまざまな形で転機が訪れた年でもあった。昭和から平成に元号が改まり、美空ひばりなど戦後日本を象徴した人物が次々と逝去。最高潮に達したバブル経済を背景に日本企業が“アメリカの象徴”を買収する一方で、消費文化の“闇”を想起させる劣悪な事件やカルト教団の行動が顕著になる。
世界に目を向けても11月、ベルリンの壁が崩壊。これをきっかけに危なげに東西の均衡を保ってきた冷戦構造は瓦解するが、多くの国々は新たな体制の到来に混乱を来たし、宗教・民族紛争を引き起こすことになった。
時代は確実に、移り変わりを見せ始めていた。冒頭に記した佐野の一節は、間近に忍び寄る混迷の時代に進軍するための“宣言”だった。
それは『ナポレオンフィッシュと泳ぐ日』からの第1弾シングル「約束の橋」にもあらわだろう。奇しくも1969年、激動の時代に疲弊した若者たちに向け、サイモン&ガーファンクルが'70年代への希望をこめて「明日に架ける橋」を歌ったように――この曲はまさしく「'90年代に架ける橋」であった。