14 | 老詩人、諏訪優との交流
1990-1992



 アレン・ギンズバーグの詩の訳者であり、日本にビート・カルチャーを紹介した詩人・諏訪優と佐野元春との交流が始まったのは、たしか1984年6月だったと記憶している。

 ニューヨークから帰国し、「ビジターズ・ツアー」がスタートするまでの間の或る日、筆者を含む数人の友人たちと共に、佐野は千駄木の小さなスペースで毎週日曜日に開かれていた“諏訪私塾”を訪れた。僕らは私塾の後に“インシャラ”というインド風の飲み屋で開かれる二次会がとても楽しみだった。他愛のない音楽談義に混じって必ず交わされたのが“ビート・ジェネレーション”についての話だった。

 当時の僕は“ビートニク”の在り方について論議することに夢中になっていた。そんなとき諏訪さんはビールで少し赤くなった顔の口元にはえた白い髭を右手でさすりながらユーモラスな話をしてくれたのだ。諏訪は佐野の音楽のファンでもあり、ライヴにもよく足を運んでいたが、とりわけ佐野の詩を高く評価していた諏訪は佐野の詩集を編集することを望んでいた。

 '88年に「現代詩手帳」臨時増刊として刊行された「ビート読本」での対談でも彼は「いつか佐野さんの詩集を編集させてください」と語っていたが、しかし残念ながらその計画は実現することなく、1992年12月26日、諏訪優は食道ガンでこの世を去った。

 生前、たぶん入院中に記したと思われる文章の中で諏訪は佐野が矢野顕子とデュエットした「また明日...」を絶讃していた。その文章は公的に発表されたエッセイだったが、いま思えばあれは諏訪優からの佐野元春への別れの手紙だったのではないか、と僕には思えてならない。

 その2年後の'94年、諏訪の友人でもあった詩人ゲイリー・スナイダーが綴った追悼詩をみずから翻訳した佐野は諏訪が眠る永昌寺を訪れ、心の中でその詩を復唱し、詩を書きつけた一枚の紙を彼の墓前に置いた。

Appendix: ボヘミアンの墓

(下村 誠)



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