02 | International Hobo King Tour
1995-1996


 佐野元春の新しい航海。彼の新しいバンド、インターナショナル・ホーボーキング・バンドとのツアー「International Hobo King Tour」には、そんな言葉が相応しい。

 

 ザ・ハートランドの解散から約1年半。ニュー・アルバム『フルーツ』のセッションの中から生まれたインターナショナル・ホーボーキング・バンド(後にインターナショナルが取れ「ザ・ホーボーキング・バンド」となる)。彼らが成長し、バンドになるためには、このツアーが必要だった。

 そこには、いくつもの奇跡とドラマがあったのだ。1996年1月から2月にかけて、全国8都市、13公演のツアー。佐橋佳幸、井上富雄、KYON、小田原豊ら新しい仲間とまわったこのツアーを幸いにも、コンサート・ツアーの同行記(「THIS 1996年 夏号 第3号」掲載)を書くために見届けることができた。コンサート・ツアー中、終演後にメンバーと飲みにいく機会を何度か得た。そこで議論されたのは、自分達はバンドなのか、バックアップ・バンドなのか――ということだ。

 彼らは、ともに輝かしいキャリアがあり、常にスタジオやステージの第一線で活躍している。いたるところから引く手あまたで、仕事ならいくらでもある。そんな背景を持ちながらも、あえて彼らは佐野元春と活動を共にすることにこだわった。

 佐野は、自らの音楽的なヴィジョンを寸分たがわず具現化するためだけに、ミュージシャンを掻き集めたりしない。むしろそのミュージシャンたちの持つ音楽性を有機的に結び付け、彼らが生み出すグルーヴとポテンシャルにこだわった。だからこそ、ザ・ハートランドはバックアップ・バンドの域を超えて、音楽的なパートナーとなりえたのだろう。

 ホーボー・キング・バンドの演奏では、その“ハートランド・マナー”を尊重しながらも、原曲の持つ骨格が露にされ、ダウン・トゥ・アースな彩りが加わる。アメリカン・ロックやルーツ・ミュージックに精通するメンバーならではのものだ。

 しかし、ホーボー・キング・バンドとしての確固たる音の輪郭が見えてきたのは、初日の仙台、札幌と続く、1月26、27日の福岡公演でのことだった。当初、アンコールで予定されながら、それまで披露されることなかった「ぼくは大人になった」が急遽、演奏された。公演直前の楽屋でのセッションが契機で決定されたことだ。アーシーながら、ヒップホップ感覚がミクスチャーされている。それはホーボーキング・バンドだからこそできたことだし、何よりも彼らの音楽性が有機的に結びついてきた証拠だろう。

 さらに武道館の2日間公演後、2月22日、広島で奇跡は起こった。同じく予定されながらも披露されることのなかった「ポップチルドレン」が演奏される。これも楽屋での短いセッションが契機だった。同曲は、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドやストゥージーズなどを彷彿させるニューヨークの“ファクトリー・メイド”のクールなロックンロールに仕上がった。即興ながらもそこにバンドとしてのグルーヴがある。これもおそらくバンドでなければなし得なかったものだ。

 そして最終公演、2月27日、横浜の神奈川県民ホールでドラマは生まれた。当初は、このツアーのために用意され、決まっていた曲順で演奏する予定だったが、佐野は公演直前にすべて白紙にし、変更することを決定。その曲順は大幅に入れ替わった。同時に、それは照明や音響のプラン立て直すことであり、安定したフォーマットをあえて崩す、危険な賭けでもある。

 ところが、演奏は予定調和を否定した緊張感と開放感にあふれたもので、ホーボー・キング・バンドが作り出す巨大な至福と歓喜がオーディエンスをやさしく包み込んだ。彼らは危険な賭けに勝ったのだ。それは彼らがひとつのバンドとして誕生し、成長していったことの証明に他ならない。ホーボー・キング・バンドはこのツアーを通して、バンドになっていった。

 メンバーの当初の問いかけは、俺達はバンドだという確信に変わったはずだ。それは、後に佐野元春とホーボーキング・バンドの緊密な関係が生んだウッドストック録音の名作『ザ・バーン』へと繋がっていった。そう、佐野元春の新しい航海は上々の滑り出しだった。

(市川清師)



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