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アルバム「コヨーテ」について

2007/04/23

コヨーテ、荒地を往く

text=佐野元春

 今日、新作アルバムの最後となる曲のレコーディング作業が終わった。

 このアルバムは、80年代から僕の音楽を聴いてきてくれたリスナーにとって、最高かつユニークな経験となるだろう。そして何かの理由で僕の音楽に触れる機会がなかったリスナーにとって、最高に気になるアルバムになってほしい。

 僕はこのアルバムをメインストリームに置く。そして「こんにちは」と、誰かれとなく人々の心臓を叩きたい。ここ半年間、僕の音楽、僕の精神は「コヨーテ」にあった。曲を作りながら、我々の文明はどこへ向かっているのか、ということに少しだけ想いを馳せてみた。

 「コヨーテ」は進化する世界において、あらゆる困難を切り抜けていく者の象徴だ。アメリカン・ネイティブのホピ達はコヨーテのことを 「iisaw」と呼び、物理的な世界と霊的な世界の間を歩き回る聖なる存在としてリスペクトした。同時に一種の「トリックスター」として、誰かを騙して楽しんでる悪賢い奴として用心もした。

 以前一度コヨーテに会ったことがある。山岳部に生きる動物かと思っていたが、僕が会ったのは米国コロラド近くのスモールタウンだった。実際のコヨーテは日本の柴犬に似ていた。何を眺めていたか、どんな景色を目に記していたのかは知る由もないが、風に吹かれて立つその姿は、光の力、闇の力、その両方の力をどう使えばいいかを知っているかのように、揺るぎない存在としてそこにあった。

 現代は荒地だ。過去の幾人もの詩人達がそう謡った。そして僕は今21世紀の荒地に立っている。21世紀の戦時下という荒地、無秩序なヒューマニズムとそこに引き起こる混乱、唯物的な近代の世界観がさらにあつかましさを増し、宗教的倫理がないがしろにされた荒地、伝統と権威が破壊された荒地。

 たそがれてゆく文明。テロに怯え検閲と監視の元に生きる荒地、ダム決壊。言葉と愛への不信が募るだけの荒地、命が手軽で便利な形式へと下ってゆく荒地、未来を気にしていたら現在の生に絶望してしまうような荒地。Mr. Outsideは僕を何処へ引き連れようというのか。

 そこに立っているのは僕だけではない、隣にいる君や彼女、男と女、オトナとコドモ、下層や上層にいる者、一介の労働的人間から美的生活者に至るまで、躓いている石は一緒だ。僕らは懲りることなく、自由とパンを同時に手に入れようとして相変わらず傷つき続ける。僕らがこうした不安に耐えていること自体が不思議だ、と思わないか?

 今僕らにできることがあるとしたら、亡びに向けて反抗すること、破滅から脱出を試みることではないだろうか。疑問を持ち続けること、目や耳を鋭敏に働かせること、充実した「個」に向けて絶えまなく探求を続けること、絶えまない変化と反復のうちに、自分の存在を確認すること。望みはたったひとつ、自分自身でいたいだけ。

 この荒地に立って嘆く君のため息が僕の音楽となる。この荒地のどこかで君の声が聞こえている。「コヨーテ」は僕にとってささやかな虚空の手だ。その虚空の手を光にかざしどこまでできるかわからないが唄ってみた。

 「コヨーテ」は宗教や道徳の代用物ではない。エーテルやモルヒネではない。知的な遊戯ではない。テクニックや洗練された知性でくるんだ菓子ではない。「コヨーテ」は、ただ素朴な生についての、素朴な生に絶望しないだけの、素朴な生の賜物としての、素朴な生に隠れた奥深い事実を暴くための、ほんとうにささやかな反抗の調べとして記録した。

 このアルバムは、「コヨーテ」と呼ばれる、あるひとりの男の視点で切り取った12篇からなるロードムービーであり、その映画の「架空のサウンドトラック盤」という想定で作った。君の時間を借りて聞いてもらうのだから、言うまでもなく、君はこの映画のヒーロー / ヒロインになってほしい。僕は斜に構えたアウトローを気取ることにする。

 僕等は現代の荒地に立向かってゆかなければならない。願わくば僕と君のスピリットが常に強くありますように。

 最後に一言。

「できるだけ良いオーディオでラウドに聴いてほしい。」

 ご静聴ありがとう。