佐野元春『HAYABUSA JET II』

評論 ─ 佐野元春 & ザ・コヨーテバンド『HAYABUSA JET II』『HAYABUSA JET II』を巡るテキスト

新しい世界のリスナーにも捧げられた佐野元春ならではのロックシーン最先端サウンド

TEXT=北村和孝 (Player編集長)、佐野元春アーカイブ・コミッティー (msAc)

 デビュー45周年ツアーを2025年7月よりスタートした佐野元春 & THE COYOTE BAND。ソールドアウト公演が続出する大盛況のツアーに、敏腕ミュージシャンたちも確かな手応えを感じているはずだ。自分も先日のLINE CUBE SHIBUYA公演に足を運んだが、映像演出と有機的にリンクしたメッセージ性あふれるステージは、まさにアニバーサリー公演ならではのもの。実に感動的だった。

 6人による男らしいステージングも相変わらずシャープでクール。その好リアクションを受け、ツアーは結果的に年をまたいで行われることとなった。佐野の新型コロナウイルス感染により延期となった高松、京都の振替公演に加え、追加公演として大阪城ホール、そして佐野自身にとって初となる東京ガーデンシアターでのツアーファイナルが控えている。

 45周年プロジェクトが数多く展開されるなか、最大のサプライズは、早くも名盤と名高い『HAYABUSA JET I』だろう。佐野元春の代表曲群に、現在の視点からの“再定義”が施され、一般的なカヴァーアルバムとは一線を画す仕上がりとなっている。その変化は、原曲が身体に染み込んでいる自分のような従来のファンにとっても鮮烈だった。

 そして何より、今の十代、二十代の若いリスナーたちに「最前線のロック」として受け入れられたことが大きい。その事実は、今回のツアーにキッズたちがチケットを握りしめて駆けつけた光景が、何より雄弁に物語っている。

 ところで、『HAYABUSA JET I』のベーシック・レコーディングが行なわれた際、2024年2月5日には「新しい航海」、翌6日には「新しい世界」が録音されていた。さらに5月14日には、「誰かが君のドアを叩いている」「君を汚したのは誰」もレコーディングされている。いずれも、セッションがあまりにも順調に進んだ結果、スタジオに時間的余裕が生まれたため、追加で録られた楽曲だったという。

 しかも、お聴きいただければわかる通り、その内容はいずれも極めて完成度の高いものだった。「これは何曲か足せばアルバムになるのではないか」──そんな手応えのもと、2025年3月から6月にかけて追加楽曲のレコーディングが行なわれることになる。

 こうして結果的に、ビジュアルイメージで言えば、ザ・ビートルズの“青盤”を想起させる『HAYABUSA JET I』と、“赤盤”のような位置づけの『HAYABUSA JET Ⅱ』という二作が成立した、というのがその経緯だ。もっとも、言うまでもなく、ビートルズのようにレコーディング時期で明確に分かれているわけではないのだが。


01.君を想えば

 アルバムの冒頭を飾るのは「君を想えば」。原曲「Innocent」はベスト盤『The 20th Anniversary Edition』(2000)のボーナス・トラックとしてリリースされ、デビュー20周年を祝してファンへ宛てられたラブレターのような一曲だった。それが45周年の現在、THE COYOTE BANDによるアッパーな演奏で鮮やかに再演されている。

 オルタナティヴ・ロックのムーブメントが日本国内にも吹き荒れた時代、その象徴的な楽器であるフェンダー・ジャズマスターを、国内でいち早く手にしていた一人が佐野元春だった。原曲のレコーディングでは佐野自身がジャズマスターをプレイしている。

 さらに本作では、そのテイストを、藤田顕がジャズマスター、深沼元昭がギブソン・レスポールを手にしたツインギターのアグレッシヴなアンサンブルとして継承。印象的なギターソロ、そしてスライドギターによるオブリガートは、原曲における佐橋佳幸のプレイが再現されている。

 つまり本作は、THE HOBO KING BANDで共に演奏した先輩・佐橋佳幸と、THE COYOTE BANDとの共演が実現したかのような、佐野ならではのレコーディング・マジックが光る仕上がりとなった。なお、ベースは高桑圭がリッケンバッカーを奏でている。

 コヨーテバンドのアンサンブルにおいて、ベースの高桑圭は「低音楽器」という機能的役割をはるかに超えた存在だ。彼のベースは、リズムとハーモニーを結びつける接着剤であり、同時に楽曲の情緒や視線の高さを静かに規定する、いわばアンサンブルの“地平線”のような役割を果たしている。

 高桑のプレイでまず印象的なのは、ラインの明瞭さと歌心の共存だ。必要以上に動かないが、決して平板でもない。ルートを的確に押さえながら、わずかな装飾や音価のコントロールによって、楽曲に陰影を与える。そのベースラインは、佐野元春のメロディや言葉が進むための「足場」となり、歌を支えるというより、歌と並走して物語を運んでいく。

 さらに重要なのは、彼のプレイが持つ冷静さと温度の同居だ。構造を崩さない理知的な設計の一方で、フレーズの端々には人間的な揺れや感情の余白がある。そのため、コヨーテバンドの演奏は完成度が高くなればなるほど無機質になるのではなく、むしろ生々しさを増していく。

 高桑は、コヨーテバンドのアンサンブルにおける「静かな推進力」である。目立つことなく、しかし確実に音楽の進行方向を定め、全員が安心して音を重ねられる基盤を提供する。そのベースがあるからこそ、コヨーテバンドの音楽は大人の強度と柔軟さを同時に獲得している。彼の存在は、アンサンブルの完成度を陰で決定づける、不可欠な軸なのだ。


02.新しい航海

 「新しい航海」の原曲は、ロンドン録音による1989年作『ナポレオンフィッシュが泳ぐ日』に収録された楽曲だ。オリジナル・ヴァージョンでは、エルヴィス・コステロの盟友ジ・アトラクションズと、ブリンズリー・シュウォーツの混合メンバーが演奏を担っていたが、その後、より一層メリハリの効いたアレンジでTHE HEARTLANDがプレイしてきた。

 オリジナル・ヴァージョンでのスティーヴ・ナイーヴによる象徴的なギターソロのフレーズは、のちにダディ柴田のサキソフォンが受け継いできたが、今回のレコーディングでは、そのフレーズを藤田顕が継承。オクターバーを噛ませたレフティ仕様のレスポールでプレイしている。終盤では佐野元春のハーモニカも大きな存在感を放つ。

 英国ミュージシャンによる生粋の2拍3連が効いたブギー・リズムが、さまざまな変遷を経て、ラディック・キットを叩く小松シゲル(NONA REEVES)と、ホットなフェンダー・プレシジョンベースを操る高桑圭という敏腕リズム隊によって、見事に受け継がれた点も特筆すべきだ。なお、「欲望のボルケイノ~」などで軽やかに響いている音色は、佐野自身が奏でるマンドリンによるものである。

 コヨーテバンドのアンサンブルにおける渡辺シュンスケの存在はどうだろう。彼は、コヨーテバンドにおいて“前に出るキーボーディスト”ではなく、“構造を設計する演奏者”という特異な役割を担っている。彼の仕事は、ソロやフレーズで自己主張することではなく、バンド全体の重心と呼吸を決めることにある。

 コヨーテバンドでは、誰も佐野元春と張り合わない。だが、ただ支えるわけでもない。そのバランスを成立させているのが、シュンスケのキーボード・プレイだ。「新しい航海」や前作の「欲望」でのキーボード・プレイも歌が前に出るときは、和音を薄く、言葉が重いときは、音を引く、サビで感情が開くときだけ、視界を広げる。この操作によって、佐野元春の声が「物語の語り部」として常に中心に保たれている。

 「新しい航海」が印象的なのは、希望を過剰に美化しない点だ。未来は明るいと断言されるわけでも、すべてがうまくいくと約束されるわけでもない。それでも船は出る。迷いや不安を抱えたまま、それでも進むという姿勢こそが、この曲の核にある。そこには、長いキャリアを重ねてきた佐野元春だからこそ到達できる、覚悟の質感がある。年齢や状況を問わず、いま何かを始め直そうとするすべての人に静かに寄り添う、佐野元春の成熟したアンセムだと言えるだろう。


03.太陽

 「太陽」の原曲は、2004年発売のアルバム『The Sun』に収録された楽曲だ。オリジナル・ヴァージョン「The Sun」は、佐野元春のギター弾き語りから始まるアレンジだったが、今作では冒頭からメロトロンが鳴り響き、さらに小松シゲルと高桑圭による4つ打ちのダンサブルなビートが加わることで、印象は一変する。

 グルーヴの質感こそ異なるものの、『HAYABUSA JET I』で感動的だった「欲望」を思い起こさせる瞬間もある。しかしそれは、単なるオマージュに留まるものではない。佐野ならではの斬新なダンスビート解釈として提示されている点が秀逸だ。

 このダンスビート化は、単にロックを踊れる形に変換したという話ではない。1970年代ディスコ、80年代のポスト・パンク~ニューウェイヴ、さらに90年代以降のハウス/テクノ以降の感覚までを射程に入れた、「身体性としてのビート」を佐野なりに再構築した結果だと言えるだろう。ロックの語法を保持したまま、反復と推進力によってトランス感を生み出す手法は、Talking HeadsやNew Order、あるいはPrimal Scream以降のダンス・ロックの系譜とも静かに共鳴している。

 特筆すべきは、そのどれにも直接的に寄りかからない点だ。クラブ・ミュージックの文脈をなぞるのではなく、あくまで「歌」を中心に据えながら、ビートの強度によって意味を更新していく。その姿勢は、80年代から一貫して佐野元春が取り組んできた“黒人音楽以降のポップス解釈”の現在形とも言える。ロックでもあり、ダンスミュージックでもあるが、そのどちらにも回収されない。このバランス感覚こそが、「太陽」を単なるリアレンジではなく、2020年代の楽曲として成立させている所以だ。

 なお、NONA REEVESにおいても小松のダンサブルなドラミングは折り紙付きだが、近年では藤井 風のレコーディングにも参加するなど、いまや日本を代表するドラマーの一人となった。その小松に呼応する高桑のベースも、本曲の推進力を大きく担っている。

 大胆なテンポチェンジが課される中盤における高桑のベースの素晴らしさは、思わず唸らされるほどだ。このセクションでは原曲に内包されていたビートルズ・オマージュを受け継ぐツインリード・ギターも大きな聴きどころのひとつ。そして今回、歌詞が一部改められている点も、ささやかながら強い驚きを残す。

 ここに収録された再定義バージョンの「太陽」で、オリジナルにあった「GOD」というワードが省かれた理由はなんだろうか。この再定義で最も重要なのは、佐野元春が 責任の所在を外部に置かなくなったという点だろう。「GOD」という問いかけから距離を取り、再定義版「太陽」は、「そうである世界の中でどう生きているか」という問いだけを残している。若さの反抗ではなく、成熟を引き受け、「GOD」を削ることで、この曲は神に問いかける歌ではなく、神の沈黙を前提に、それでも生きる態度を問う歌になった。


04.新しいシャツ

 原曲引用によるリズムマシンのフィルから始まる展開に思わず耳を奪われる「新しいシャツ」は、1993年発表のアルバム『The Circle』に収録された楽曲だ。当時は、マシンビートと生ドラムのサウンドを融合させる試みがトレンドとなり、国内外を問わずさまざまなトライアルが行われていた。その流れの中でも、ひときわユニークなグルーヴを提示していたのが『The Circle』であり、「新しいシャツ」はライブでシンガロングを巻き起こす定番曲となっていった。

 今回のレコーディングで小松シゲルは、原曲をプレイした古田たかしの見事なドラミングに敬意を表し、そのプレイをほぼ忠実に再現してみせている。キーの違いによって印象こそ変化しているものの、パーカッションやシンセサウンドの一部は原曲トラックからピックアップされ、佐野自身がトランスポーズなどの繊細なトリートメントを施した。

 渡辺シュンスケのウーリッツァー、藤田顕のジャズマスターはいずれも、よりトレブリーな音作りで楽曲に新たな輪郭を与えている。さらに、佐野が振るタンバリンも、おおらかなグルーヴを形作る重要な要素として機能しており、原曲へのリスペクトと現在進行形の感覚とが見事に共存する仕上がりとなった。

 この楽曲が生まれた1993年前後は、ロックとダンスミュージックの関係が大きく更新された時代でもあった。New Orderが提示したマシンビートとバンド・サウンドの幸福な共存を起点に、Happy Mondays、Primal Scream、さらにはThe Stone Roses以降のUKダンスロックが、クラブとライブハウスの境界を溶かしていった時期だ。打ち込みの反復性と、生身の演奏が持つ揺らぎをいかに同居させるか――それは当時のロック・バンドにとって、避けて通れないテーマだった。

 『The Circle』における「新しいシャツ」は、その問いに対する佐野元春なりの解答だったと言える。マシンビートを単なる下敷きにせず、歌とグルーヴの推進力として機能させる一方で、ドラムの身体性を前景化させる。その設計思想は、UKダンスロックの潮流と共鳴しながらも、過度にクラブ志向へ傾くことはない。あくまで「ポップソングとしての強度」を軸に据えた点に、この曲の独自性があった。

 今回の再録で、その構造がほぼ原型のまま再提示されたことは重要だ。90年代初頭に模索されたマシンビートの可能性が、2020年代の耳においてもなお有効であること、そしてそれが単なる時代の記号ではなく、普遍的なグルーヴとして成立していることを、本作は静かに証明している。


05.レイン・ガール

 どっしりとした佇まいが印象的な「レイン・ガール」も、原曲は『The Circle』に収録された楽曲だ。当時は車のCMに起用され、佐野元春がサンフランシスコのストリートを駆け抜ける姿が強い印象を残した。

 その後、THE HOBO KING BANDと制作した2011年作『月と専制君主』では、よりアコースティックなテイストへと舵を切り、6/8拍子による大胆なアレンジも披露された。そうした変遷を経て、本作では原曲へと回帰。オルタナティヴ・ロックの血脈をリアルタイムで体感してきたTHE COYOTE BANDならではのプレイが、改めて鮮烈な輝きを放っている。

 高桑圭は本曲でもリッケンバッカー・ベースを使用。とりわけサビにおいて、深沼元昭のレスポールと、藤田顕によるレフティ仕様のES-335TDが一気に前に出てくるダイナミックな展開は痛快のひと言だ。ツアーでも高い人気を誇る一曲である。

 本作におけるギター・アンサンブルの要点は、90年代以降のオルタナティヴ・ロックが確立した「役割分担としての歪み」の感覚にある。轟音で塗りつぶすのではなく、各ギターが異なる帯域と質感を受け持ち、リフ、コード、テクスチャーが立体的に噛み合う。その設計思想は、Dinosaur Jr.やWilco、さらにはRadiohead初期に連なるアンサンブル美学とも共振している。

 深沼元昭のレスポールはミッドレンジに厚みを持たせ、曲の骨格を形成する一方、藤田顕のレフティES-335TDは、アタックと抜けの良さで空間を切り裂く役割を担う。そこに佐野元春のギターが加わることで、歌を中心に据えたバンド・サウンドとしての重心が明確になる。いずれのパートも前に出すぎることなく、サビで一斉に開放される瞬間にのみ、ロックのカタルシスが最大化される設計だ。

 このようなアンサンブルは、90年代以降の「オルタナ=内省的」というイメージを更新するものでもある。叙情性と推進力、ヘヴィさとポップネスを同時に成立させるバランス感覚こそが、「レイン・ガール」を時代を超えて鳴り続ける楽曲へと押し上げている。

 THE COYOTE BANDのツインギターは、単なる分厚さの補強ではなく、「機能分化された対話」として設計されてきた。結成初期から現在に至るまで、その基本思想は一貫しているが、時代ごとにその運用は確実に進化している。『HAYABUSA JET I / II』における深沼元昭と藤田顕のツインギターは、その到達点と言える。オルタナティヴ・ロック以降の方法論を身体化した演奏でありながら、決して技巧や音圧を誇示しない。二人のギターがせめぎ合うのではなく、互いの空間を尊重しながら、楽曲の核心を照らす――それこそが、THE COYOTE BANDにおけるツインギターの成熟した姿なのだ。


06.訪問者たち

 アナログLPレコードではB面の頭でリフレッシュを促し、CDなどのフォーマットでは「レイン・ガール」から一転、カラッと視界が開けるような音像の変化が印象的なのが「訪問者たち」だ。

 原曲は、1984年リリースのアルバム『VISITORS』において、同じくB面の冒頭を飾っていた。佐野元春がニューヨークでの生活を通じて出会ったヒップホップと、幼少期から聴き親しんできたジャズを融合させ、それまでの日本のロックには存在しなかったサウンドとして提示された本作は、当時のシーンに衝撃とともに受け止められた。

 華やかなイントロを彩るシンセサウンドは、当時使用されていたPPG Waveによるもの。その煌びやかさは「PPGでなければ出せない」と佐野自身が語るほど、楽曲のアイコン的存在となっている。加えて、Moogによるアルペジエーターなども佐野がプレイ。渡辺シュンスケは、ピアノとハモンドオルガンを中心に楽曲を支えている。

 さらに、佐野が弾き語りで使用したマーティンのアコースティックギター、エモーショナルなギターソロを担う深沼元昭のレスポール、空間系エフェクトを駆使した藤田顕のジャズマスターによるツインギターが重なり合い、ギターサウンドもきわめてリッチなものとなった。原曲の構造を踏襲しつつも、より一層カラフルで立体的なサウンドへと昇華されている。

 この曲が収録されているアルバム『VISITORS』(1984)は、日本におけるヒップホップ受容のあり方を、決定的に更新した作品だった。ラップを前景化した作品でも、ヒップホップ専門のアルバムでもない。それにもかかわらず、このアルバムは「ヒップホップ的思考」が日本のポップ/ロック文脈に定着しうることを、初めて説得力をもって示した。

 当時の日本において、ヒップホップはまだ「ジャンル」として消費されるか、あるいはアンダーグラウンドの文脈に限定されがちだった。だが佐野元春は、ニューヨーク滞在中に体感したヒップホップを、ラップやスクラッチといった記号としてではなく、都市のリズム、言葉の配置、反復によるグルーヴ感覚として持ち帰った。その結果生まれたのが、『VISITORS』における独特の音像だった。

 特筆すべきは、ヒップホップを「黒人音楽の最新形」としてではなく、ジャズ、ファンク、ロックと地続きの都市音楽の一形態として捉えていた点だ。ヒップホップの方法論を、既存の日本語ポップスに移植するのではなく、佐野自身のソングライティングや言語感覚と融合させる。そのアプローチは、後年のフィッシュマンズ、ドラゴン・アッシュ以降のポップ寄りヒップホップ、さらには2000年代以降の日本語ラップとロックの越境にも、静かだが確実な影響を与えている。

 『VISITORS』が重要なのは、それが「ヒップホップをやった」アルバムではなく、ヒップホップをどう理解し、どう内面化するかを示した点にある。ジャンルの輸入ではなく、感覚の翻訳。だからこそこの作品は、30年を経た現在でも、古びることなく参照され続けているのだ。


07.君を汚したのは誰

 「君を汚したのは誰」も、原曲は「Shame」として『VISITORS』に収録された楽曲だ。まず佐野元春がウーリッツァーを弾きながら歌ったトラックを録音し、そこへリズム隊を重ねていく方式が採られている。小松シゲルのドラムは、ミュートによる抑制されたタッチ。その成り立ちは、先述した通り、スタジオに余裕が生まれたことで実現したセッションの一つだが、結果として『HAYABUSA JET Ⅱ』の中でも、ひときわシンガーソングライター・オリエンテッドな演奏が味わえる一曲に結実した。

 終盤に向かって徐々に高まっていくアンサンブルは、歌心に満ちている。ウーリッツァーには、本来ハモンド・オルガンで用いられることの多いレスリースピーカーを接続。その独特の歪みや揺れを伴ったアナログサウンドを丁寧にマイキングするなど、プロデューサーとしての佐野のアイデアは鋭い。後にダビングされたアコースティックギターも佐野自身によるもので、音像はあくまでミニマルだが、極めて密度が高い。

 佐野のヴォーカルは、まるで目の前で歌われているかのような存在感を放ち、原曲以上に生々しい仕上がりとなった。なかでも注目すべきは歌詞の変化だ。原曲リリース当時、美しいメロディとは裏腹に、「I’m so angry」という直接的なフレーズを含む表現は過激にも響いた。しかし今回、その部分は変更され、歌詞はすべて日本語へと置き換えられている。

 その結果、楽曲はよりラブソングとしての性格を強め、かつての怒りの振り子は肯定の側へと傾いたとも言えるだろう。だが、それは単なる軟化ではない。なぜ今、佐野元春はあえてこの歌を、こうした言葉で歌うのか――その問いそのものが、聴き手の心に強く引っ掛かる。佐野にしか成し得ない、驚きと余韻に満ちた名演である。

 1990年代の佐野元春が鳴らしていた「怒り」は、個人的感情の発露というより、都市に生きる主体としての違和感だった。『VISITORS』期に顕著なのは、言葉の鋭さやビートの切迫感を通じて、社会や関係性の歪みに踏み込もうとする姿勢である。「Shame」における “I’m so angry” というフレーズも、感情の爆発というより、逃げ場のない現実を直視するための、あえて露骨な言語だった。

 当時の佐野は、怒りをエネルギーとして前に進むしかなかった世代の語り手でもあった。冷戦終結後の価値観の揺らぎ、都市化と個人の分断、言葉が軽く消費されていく時代の入口に立ち、肯定よりもまず「問い」を突きつける必要があった。その意味で、90年代の佐野の怒りは、批評性そのものだったと言える。

 それに対して、今回の再録で示される「肯定」は、単純な和解や諦観ではない。オリジナルの“I’m so angry” が “君が愛しい” に再定義されたフレーズは、 怒りを通過した先にしか辿り着けない、成熟した選択だ。英語の直接的なフレーズを排し、日本語のみで歌い切るという決断は、感情を弱めることではなく、むしろ感情を引き受けることに近い。叫ぶのではなく、抱きしめる。その姿勢が、現在の佐野の歌い方に表れている。

 重要なのは、怒りが否定されたわけではないという点だ。怒りは、否定ではなく、肯定へと変換された。90年代に「傷つけられた事実」を告発していた歌は、いま「それでも誰かを想う」歌へと位相を変えている。その変化は、時代への迎合ではなく、長い時間を生き抜いた表現者だけが到達できる地点だろう。

 「君を汚したのは誰」は、過去を書き換えた歌ではない。過去を抱えたまま、現在に立つための歌だ。そのことが、この再録を単なるセルフカヴァーではなく、創作の現在形として成立させている。


08.吠える

 個人的に「新曲か!?」と驚かされたのが「吠える」だ。名盤『SOMEDAY』(1982年)収録、同年の先行シングルとして発売された「Happy Man」が、ロカビリー直系の跳ねるビートとオルタナ・カントリーの荒々しさをまとい、まったく新しい表情で蘇っている。スネアの置き方ひとつで腰が自然に前へ出る、あの1950年代ロカビリー特有の前のめりなグルーヴ――この身体感覚の更新にまず耳を奪われる。

 この曲は、「君を想えば」のレコーディングがあまりにも順調だったため、佐野がギブソン(ES-335TD)を手に取り、「やってみたい曲があるんだけど……」とバンドに持ちかけたことから始まった。当初は「HOWL」という別称もあったほどで、原曲に内在していたロックンロール衝動を、より露骨に引きずり出す意図が明確だったことがうかがえる。

 歌詞はオリジナルの「Happy Man」をベースにしつつ、ロカビリー的コール&レスポンスの快楽が前面に押し出され、瞬時に原曲に匹敵するシンガロング・ナンバーへと転化した。小松はラディック・キットでタイトかつ跳ねるビートを刻み、高桑のプレシジョン・ベースはウッドベース的な“うねり”を想起させる。深沼のレスポール、藤田のレフティES-335はいずれもスラップバックを想起させる短い余韻と切れ味で応酬し、ロカビリーのギター会話を現代的に再構築している。最初のギターソロが深沼、後半のギターソロが藤田。渡辺のハモンド・オルガンも、黒人音楽由来の熱をさりげなく注入する。

 まるでバンド全員が同じマイクに群がり、喉を鳴らして吠えているかのようなコーラスも痛快だ。オルタナ・ロックの感性を通過したTHE COYOTE BANDが、ロックンロールの原初衝動=ロカビリーを現在形で呼び覚ます。その瞬間のスリルが、この「吠える」には刻み込まれている。

 THE COYOTE BANDでの小松シゲルのドラミングを語るとき、彼は「リズム隊の一員」という枠を軽々と越えている。その役割は、単にテンポを維持し、ビートを刻むことではない。むしろ楽曲の呼吸を設計し、アンサンブル全体の重心を見極めながら、音楽の推進力と余白の両方をコントロールする存在だ。

 小松シゲルのドラミングの特徴は、前に出すぎない強度と、しかし決して後景に退かない明瞭さにある。タイトで無駄のないストロークは、佐野元春の言葉のリズム、フレージングの抑揚と深く結びつき、歌の背後で脈打つ「もうひとつの語り」として機能する。派手なフィルや技巧的な展開に頼らず、楽曲の構造そのものを支える判断力が、バンド全体の音像を安定させている。

 さらに重要なのは、彼がアンサンブルの会話をよく聴いている点だ。ギターのカッティング、ベースのライン、コーラスの入り方に即応し、ドラムの配置や音量を微調整することで、演奏は固定された再現ではなく、その場で更新される表現へと変わる。結果としてコヨーテバンドのライブは、完成度が高いにもかかわらず、常に「今ここで鳴っている」緊張感を保ち続ける。

 小松シゲルは、コヨーテバンドのアンサンブルにおける要石である。彼のドラムは主張しすぎないが、欠ければ全体のバランスが崩れる。その存在感は、音数の多寡ではなく、音楽の流れをどう支配し、どう解放するかという高度な選択の積み重ねによって示されている。コヨーテバンドの成熟したサウンドは、まさに彼のドラムスを中心とした「グルーヴ」によって成立していると言っていいだろう。


09.誰かが君のドアを叩いている

 「誰かが君のドアを叩いている」の原曲は、1992年リリースのシングルで、同年のアルバム『Sweet 16』に収録された。今作ではキーこそ変更されているが、印象的なマンドリンのリフに違和感がないのは、佐野があえて原曲から抜き出したフレーズに丁寧なトリートメントを施しているからだ。アレンジは基本的に原曲を踏襲。佐野はアコースティック・ギター、藤田はジャズマスター、深沼はレスポールを担当し、渡辺はピアノとオルガンをプレイしている。原曲以上に前面に出たコーラスワークも印象的だ。

 そして本作で特筆すべきはエンディングの処理である。フェイドアウトだった原曲に代わり、今回はカットアウトを採用。原曲ではフェイドの中に溶け込んでいた〈素敵なことはまだ訪れちゃいない〉というフレーズが、はっきりと歌われる。この一節が明確に提示されることで、曲が持つメッセージ性がより強く、現在進行形のものとして立ち上がってくるのも、大きな聴きどころだ。

 〈素敵なことはまだ訪れちゃいない〉というフレーズが、いま改めて強く響くのは、この言葉が「未来への楽観」ではなく、「現在を生き抜くための態度」として歌われているからだろう。

 1992年当時、この一節は若さ特有の焦燥や希望の裏返しとして、フェイドアウトの中に溶け込んでいた。だが2025年の佐野元春が、あえてカットアウトでこの言葉を提示することには、明確な意思がある。社会が成熟と停滞を同時に抱え、不確実性が常態化した時代において、「まだ訪れていない」という宣言は、失われた何かを嘆く言葉ではない。むしろ、未来を手放さないための能動的な構えであり、希望を更新し続けるための現在形の意志表明なのだ。

 そしてこの言葉は、若いリスナーにとっても切実に響く。成果や到達点を過剰に求められがちな時代に、「まだ来ていない」と言い切ることは、焦りから自分を解放するための強さでもある。佐野はここで答えを示さない。ただ、ドアは叩かれている、だから耳を澄ませ、と歌う。その姿勢そのものが、世代を越えて共有されるメッセージとなっている。


10.新しい世界

 『HAYABUSA JET Ⅱ』の大団円を飾る「新しい世界」の原曲は「New Age」。アルバム『VISITORS』(1984)の最終曲として、ひとつの時代の扉を閉じる役割を担っていた楽曲だ。幾度かの再解釈を経てきたこの曲は、本作において、原曲以上に荘厳な佇まいをまとい、まるで儀式の始まりを告げるかのように立ち上がる。ストリング・シンセの広がり、お馴染みのフレーズ、そして4分打ちのバスドラムが鳴り響くイントロは、新しい地平への召喚のようでもある。

 やがて佐野の生々しいヴォーカルが浮かび上がり、〈昔のピンナップはみんな~〉の一節からリズム隊が加わると、楽曲は過去を振り返る回想ではなく、未来へ向かって歩み出すための推進力を帯びていく。アレンジは原曲を踏襲しながらも、THE COYOTE BANDの演奏はより骨太で、時間の堆積を引き受けたロックの強度を獲得している。

 深沼のレスポール、藤田のジャズマスターが描くギターの輪郭、渡辺によるピアノとオルガンの重なり。その上を覆うシンセサイザー群は佐野自身の手によるもので、「訪問者たち」と同様にPPGウェイヴが用いられている。モーグ・シンセやアルペジエーターの存在感は、『今、何処(Where Are You Now)』以降の作品群にも通じ、佐野元春の音楽が今なお未来を設計し続けていることを静かに証明する。

 曲の冒頭では何やら群衆の声が聞こえる。誰かのスピーチに対して群衆がブーイングしているように聞こえる。はっきりとはわからないがスピーチでは群衆に訴えるかのような声で「Two plus two is not eqole 5 (2 + 2 = 5)!」と言っているように聞こえる。「2 + 2 = 5」は、ジョージ・オーウェルの小説『1984年』に登場する全体主義国家のプロパガンダ表現で、真実が権力によって捻じ曲げられる状況を象徴した言葉だ。

 「新しい世界」の精神性は、ジョージ・オーウェル『1984年』が描いた世界と、奇妙な相似をなしている。ただしそれは、全体主義や監視社会といった表層的モチーフではない。オーウェルが『1984年』で問いかけたのは、「言葉が奪われたとき、人間は未来を想像できるのか」という根源的な問題だった。

 『VISITORS』の時代、佐野元春はヒップホップやニューヨークのストリートカルチャーを通じて、言葉とビートを武器に現実を切り裂く表現を提示した。それはまさに、その後に来るネット社会の始まり、管理され、単純化されていく言語空間への抵抗だったと言える。一方、『HAYABUSA JET Ⅱ』で佐野が行っているのは、怒りや否定を超えた地点から、再び「言葉を信じ直す」試みだ。これは『1984年』の主人公ウィンストンが最後まで手放そうとした〈内なる真実〉を、絶望ではなく継承へと反転させた態度でもある。

 全てが加速し、意味が消費され尽くす現代において、佐野は声を張り上げない。むしろ、明確な日本語で、未来形を語り直す。〈冬のボードウォークに座って、夜明けの光を待ちながら、ブルーな恋に落ちていく〉といったフレーズが持つ力は、管理された希望への抵抗であり、想像力を次の世代に委ねるための暗号のようでもある。ここには、オーウェルが描いたディストピアを反証する、もうひとつの未来像がある。

 「新しい世界」は、終わりの歌ではない。これは始まりの歌だ。過去の記憶を携えながら、まだ見ぬ風景へと歩み出すための灯火である。いま、そしてこれから佐野元春の音楽と出会う少年少女たちにとって、この曲は“かつての名曲”ではなく、“これから歌い継がれる神話”として鳴り響いていくのだ。


『HAYABUSA JET l / Ⅱ』を総括して

 『HAYABUSA JET Ⅱ』が示しているのは、回顧でも更新でもなく、「現在に立ち続ける」という姿勢そのものだ。90年代の怒り、2000年代の内省、そして幾度もの編成や方法論の変遷を経た末に、佐野元春はあらためて“歌”と向き合っている。過去の楽曲を素材として用いながらも、そこにノスタルジーを持ち込むことはない。言葉、ビート、アンサンブルを現在の身体で鳴らし直すことで、楽曲は再定義され、同時に聴き手の時間感覚も更新されていく。

 本作に通底するのは、否定ではなく肯定だ。ただしそれは、世界を無条件に受け入れる楽観主義ではない。怒りや違和感を通過した先で、なお歌うことを選び取る意志――その強度が、『HAYABUSA JET Ⅱ』の音像には刻み込まれている。静かな曲ほど生々しく、激しい曲ほど抑制が効いているのも、その成熟の証左だろう。

 THE COYOTE BANDの演奏は、技巧や音圧を誇示するのではなく、歌の意味を立ち上げるために機能している。ツインギター、リズム、鍵盤、そして声。そのすべてが前に出すぎることなく、しかし確かな推進力をもって、佐野元春という表現者の「いま」を支えている。

 『HAYABUSA JET Ⅱ』は、過去を振り返るためのアルバムではない。過去を抱えたまま、次の瞬間へと踏み出すためのアルバムだ。45年という時間の重みを、軽やかに、しかし誤魔化すことなく引き受けたその姿勢こそが、この作品の最大のメッセージなのである。

 『HAYABUSA JET I』と『HAYABUSA JET Ⅱ』は、単なる続編関係ではない。前者が「過去の楽曲を、現在の身体で再定義する」ことに主眼を置いた作品だとすれば、後者はその再定義を前提に、「なぜ今、その歌を歌うのか」という問いへと踏み込んだ作品だ。『I』がスピードと推進力を武器に、ロックとしての現在形を提示したアルバムであるのに対し、『Ⅱ』は速度を意識的にコントロールし、歌と言葉の意味を一つひとつ確かめるように進んでいく。

 『I』では、アンサンブルの切れ味やダイナミズムが前景化され、THE COYOTE BANDのロック・バンドとしての強度が際立っていた。一方『Ⅱ』では、音数を抑え、余白を生かすことで、声やフレーズの体温がより鮮明に浮かび上がる。どちらも同じバンドによる演奏でありながら、向いている方向は明確に異なる。

 45周年ツアーでも確認できたことだが、THE COYOTE BANDの演奏は、個々の技量を誇示するのではなく、グルーヴそのものを編み上げていくタイプのバンドである。佐野のタンバリン(楽曲によっては小松が担当)がさりげなくビートの隙間を埋め、全員がコーラスを取れる編成が、音像に厚みと推進力を与えている。

 なかでも深沼のヴォーカルは特筆に値する。単なるハーモニー要員にとどまらず、佐野の声質やフレージングと精密に呼応し、ときに主旋律と溶け合う。その結果、どちらが歌っているのか一瞬わからなくなるほどの同質性が生まれるが、それは個性の希薄化ではなく、長年の協働によって獲得された高度な同調の証だ。

 そして現在の佐野元春のヴォーカルは、明らかに充実期にある。年齢を重ねたことで声の輪郭は整理され、無理のない発声の中に、必要な局面では鋭いシャウトを差し込む余裕がある。若さの勢いではなく、経験に裏打ちされたコントロールが、楽曲の説得力を確実に高めている。

 その到達点は『HAYABUSA JET I』『HAYABUSA JET Ⅱ』にも刻まれている。レコーディングとミックスを担った渡辺省二郎、マスタリングを担当したマット・コルトン、そして長年佐野を支えるマニピュレーター大井’スパム’洋輔という、佐野が信頼を寄せ続ける制作陣によって、音は過度な装飾を排しながらも、現在進行形のポップ・ミュージックとしての輪郭を保っている。ここにあるのは回顧ではなく、ノスタルジーに回収されないための更新されたサウンドなのだ。

 精神性の面でも両作は対照的だ。『I』が、若いリスナーにも開かれた「最前線のロック」としての意志表明であったとすれば、『Ⅱ』は、時間を生き抜いた者だけが辿り着ける肯定の表現だ。怒りや違和感を否定することなく、それらを内包したまま歌へと変換する。その成熟した態度が、『Ⅱ』の全編に通底している。

 結果として、この二作はひとつのアーチを描く。『HAYABUSA JET I』が助走であり、『HAYABUSA JET Ⅱ』が跳躍の後の着地だ。勢いだけではなく、立ち止まり、見渡し、次の一歩を選び取る。そのプロセスまで含めて提示されたとき、45周年という時間は、単なる節目ではなく、現在進行形の創作として立ち上がる。

 『HAYABUSA JET I』と『HAYABUSA JET Ⅱ』が特別なのは、45周年という時間を背負いながらも、決して内輪の物語に閉じていない点にある。過去の楽曲を鳴らし直すという行為が、懐旧ではなく「いまの音楽」として成立している。その事実こそが、若いリスナーに向けて、この二作が大きく開かれている理由だ。

 『HAYABUSA JET I』では、スピード感とアグレッシヴな演奏によって、ロックの即効性が前景化されていた。オルタナティヴ・ロック以降の感覚を身体化したTHE COYOTE BANDの演奏は、過去を知らないリスナーにも、ジャンルや年代を超えた「最前線の音」として届く。一方で『Ⅱ』は、派手さを抑えながらも、歌と言葉の重みを丁寧に提示することで、時間をかけて聴き込む喜びを示している。

 重要なのは、若さを模倣していない点だ。流行の音像や語彙に寄せることなく、あくまで自分たちの表現を更新することで、結果的に世代を越えて届く音楽となっている。怒りや違和感を抱えたまま生きること、そしてそれをどう肯定へと変えていくか――そのテーマは、時代を問わず共有可能なものだ。

 実際、ツアー会場には十代、二十代のリスナーがチケットを握りしめて足を運んでいる。彼らが受け取っているのは「伝説」ではなく、「同時代の音楽」だ。『HAYABUSA JET I / Ⅱ』は、過去を語る作品ではない。いまを生きるすべてのリスナーに向けて、開かれ続ける現在形のロックなのである。