國崎●まずはこの対談を読んでいる佐野元春ファンのために、「マスタリングとは何か?」というところから始めていきたいと思います。
田中●さっきマスターテープを見たら、佐野さん最初のレコーディングは1980年の3月になってるんですよね。そのころはアナログのLPレコードしか無かった。CDが登場したのは1983年でしょ。どのアルバムからCDで出したんでしたっけ?
元春●「SOMEDAY」からですね。それから後追いで、ファーストとセカンドもCDで出していったんです。
元春'80年代のオリジナル・マスターテープ
田中●あの頃はカッティングがメインだったんですよね。いずれはレコードからCDになるとは分かっていたけど、こんなに急速になるとは誰も予想しなかった。あの頃はレコードがメインで、それと平行してミュージックカセットが出ていたのと同じように、CDも主(レコード)に対して従な格好だったんですね。
國崎●マスタリングというのは、スタジオでミックスダウンが終わったものを、その3つのメディアに適切な形で出すための作業ということですね。
田中●ただ、あの頃はあくまでもレコードがメインだから。
前田●そもそも、日本にマスタリングという考えが無かったでしょ?
田中●無かった。初めの頃のCDは音も違うし、違和感があって、やっぱりLPのほうが良いなと。ジャケットも活字も写真も大きい。だからアナログにすごくこだわっていたし、佐野さんも必ずカッティングに立ち会われて、曲間やレベルとかEQ(イコライザ)とか全部アナログを中心に決めて、ラッカー盤を切って。そのラッカー盤でも確認してOKが出た後にCDになるわけですよ。でも、CDの時にはマスタリングには立ち会ってない。アナログのカッティングでレベルをいくつ変えたとか、そのデータを見ながらレコードに極めて忠実に作っていったから。ましてやEQとかもないし。
元春●今はもう、マスタリングがいかに重要かというのは若いミュージシャン達も知っていると思うんだけど、自分がレコーディングアーティストとしてデビューした'80年代の初め頃は、マスタリングという作業自体、レコード会社の人でさえ良くわかってなかった。僕と田中さんとの出会いは、僕の先輩である大瀧詠一さんと「ナイアガラトライアングルVol.2」というプロジェクトで一緒になって。大瀧さんはご存知のとおり、レコードサウンドにすごく意識的で、「佐野君、ミックスだけじゃなくてマスタリングも凄く重要なんだよ」と教えてくれたのは彼なんです。「マスタリングをクリエイティブにできる人は、日本には一人しかいないんだよ」と。
國崎●その方が田中さんだったんですね。
元春●そう。それで「田中さんのところへ行きなさい」と言われたので、マスターを持っていって、よろしくお願いします、というのが始まり。クリエイティブな意味でのマスタリングというのは、当時はレコード会社の人間でさえ「それって何?」という感じでしたけど、我々ミュージシャンは洋楽のレコードをたくさん聴いて、マスタリングがいかに重要かということを知っていた。ジャズにはジャズ、ロックにはロック、クラシックにはクラシックのマスタリング専門のエンジニアがいるということを知っていましたから。田中さんに相談して、自分なりのサウンドを作ってもらおうということで始まりました。
田中三一氏
國崎●その当時、田中さんはソニーに在籍していたんですね。
田中●そう。レコード会社なんで、レコーディングもあるけど、洋楽や邦楽の編集とかサウンドチェックとか、あらゆることは全部しなくちゃならない。ちょうど'83年あたりにCDが始まったときに、海外からレコードとCDのマスターが別々に来るんですよね。LP用は6mmのテープ、CDはもちろんデジタルのテープが来るんですけど、そこで2つの音が違うんですよ。「これは何で違うんだろう?」と最初は分からなかったんですけど、まさにそれが海外ではすでにやられていたCDマスタリングですよ。僕はその違いを必死になって追っかけていったんです。最初CDが始まったときは、国内のものに関してはレコードがメインで、CDはそれに準じた、ようは単純なデジタル変換だったんですよね。
元春●技術的な作業にしか過ぎなかった。
田中●そう。今みたいにクリエイティブな状態ではなくて、できるだけ忠実に…。逆に、後からアーティストから「レコードと違うじゃないか」と文句が来ないように、そういう意味での必死な作り方をやってたのね。ピークに関してもCDはプチパチというノイズが出ないわけだから余裕を持って入れて。だから、今のCDと比べると5〜6dbレベルが低いんじゃないですかね。
國崎●マスタリングが音を変えてくれることを佐野さんは早く気づかれたわけですよね。ミックスダウンで「音楽ができた」と思うわけですが、そこからまた音を変えるというのは、アーティスト的にはどうなんだろうと、不思議に思う人もいると思うのですが。
元春●ミュージシャンの視点で言うと、ミックスまでがミュージシャンの作業。で、マスタリングはリスナーのための作業という感覚がありますね。マスタリング作業は、本当に専門的な耳を持たれてるエンジニアがする作業なので、ミュージシャンの耳とはやっぱり違う耳で作業されているという点で、僕のエリアじゃないと感じている。それと一番大事なのが、音楽というのは、その時代に生きる人々と密接に結びついている。だからヒットサウンドというのは傾向がある。その傾向を嗅ぎ分けて熟知している方達が、マスタリングエンジニアだと僕は思っている。Greg GalbiやBob Ludwicは「米国においてはFMからヒットが良く出るので、特にシングルのマスタリングをするときは、いかにFMで聴いた時にカッコよく聞こえるか、それを僕らは一番心がける。それでヒットが出たときは本当に嬉しいし、それによって僕の名前も上がってくるんだ」ということを言っていたね。
カッティング
マスターテープの音を、カッティングマシーンを使ってラッカー盤に音溝として刻み込んでいく。アナログレコード(ブラックビニール)の一番最初の製造工程。
ラッカー盤
金属版の表面にラッカーを塗布したもの。ここに音溝が刻み込まれたものが、アナログレコードの大元になる。