今年(2025年)の夏に亡くなった、自分の会社員時代のかつてのボスは、この国で国内のアーティスト中心の音楽フェスティバルを根付かせた第一人者だった。彼が交友のある出演アーティストによく言っていたのは「とにかく客が聴きたいと思う曲を上から順にセットリストに入れたほうがいい」ということだった。今となっては当たり前のように聞こえるかもしれないが、2000年代初頭までは、荒天時のフェスにサンダルやヒールを履いて来たり、目当てのバンドの出番まで何時間もステージ前を占拠したりするオーディエンスがたくさんいたことの写し鏡のように、彼が舞台裏で語っていたような音楽フェスティバルの正解に背を向けて「その時に自分が聴かせたい曲」を優先するアーティストもたくさんいたのだ。
言うまでもなく、アーティストはサービス業ではない。ライブ・パフォーマンスの場で、その時に自分が聴かせたい曲を優先させるのは当然のこと。しかし、音楽フェスティバルに集まっているのは自分の客ばかりではない。通りすがりのオーディエンスを一人でも多く振り向かせること、未だ見ぬ誰かとの偶然の出会いを信じること、無関心の地平に向けて橋を架けること、それが音楽フェスティバルという場を実りあるものにするための原理だ。日本では彼をはじめ多くの音楽フェスティバルのパイオニアたちがそこにロックという特定のジャンル名を冠していたのに反して、音楽フェスティバルはロックの原理というより、ポップの原理によって回っている。
一方、近年、音楽フェスティバル全盛時代の“副作用”とでも呼ぶべき現象も見えてきた。新作を出したばかりなのに、まるでグレイテスト・ヒッツのようなセットリストが組まれた単独ライブ。あるいは特定の活動時期に偏った代表曲の固定化。もしかしたら、現在のアーティストたちは音楽フェスティバル的なポップの原理を過度に内面化しすぎているのかもしれない。
佐野元春が自身の作品をリ・レコーディングしてアルバムを編むのは今回の『HAYABUSA JET』連作が初めてではない。そもそも、ライブの現場で過去曲を大胆にアレンジして、歌い出すまでどの曲が始まったのかわからないこともファンにとってはお馴染のこと(1984年のVISITORS TOUR。過去作を聴き込んで、入手困難なチケットを握りしめて佐野元春のライブを初体験した中学生の自分は、そのことで大いに戸惑った)。
そんなこれまでの作品やライブ・パフォーマンスと、ピュアな衝動や躍動感に貫かれた『HAYABUSA JET』連作から受ける印象が異なる背景には、ここまで述べてきたような時代の変化があるのではないか。アーティストはオーディエンスに仕えるサービス業ではないが、音楽フェスティバルの現場に限らず、ライブはアーティストにとってもオーディエンスにとっても一期一会の祝祭の場としての色合いが濃くなってきた。そんな時代に、自身のキャリアにおいて最長の期間を共に歩んできたTHE COYOTE BANDと、過去の曲を「客が聴きたいと思う曲」という基準だけでなく、「自分が聴かせたい曲」という基準だけでなく、時にタイトルやリリックをリファインさせながら現在の自身の精神とバンドの身性を伴って能動的に演奏し、リ・レコーディングすること。
きっと、かつてのボスは交友の深かった佐野元春にも「とにかく客が聴きたいと思う曲を上から順にセットリストに入れた方がいい」とアドバイスしてきたに違いない。残念ながらもうこの世にはいなくなってしまったが、彼は『HAYABUSA JET』連作をどう聴いただろう? 自分はそんなちょっと無粋なアドバイスへの、佐野元春からの正解でもない、間違いでもない、時空を超えた粋なアンサーとして受け止めた。